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平尾誠二経歴:2
 「ミスターラグビー」平尾誠二の死を悼み足跡を辿る記事の第2回。敬称略。


<承前>

 平尾が伏見工高二年生のとき、同志社大学の一年生と練習試合をする機会があった。同大ラグビー部部長だった岡仁詩は、SO平尾の高校生離れしたサイドステップに惹かれた。翌年秋、三年生の平尾に、高校進学の際は本人の意思に任せた父が、同大受験を勧めた。学力も推薦入学に充分で、山口から岡へ、平尾が同大志望である旨の挨拶があった。
 年が明け、同大は全国大学ラグビーフットボール選手権大会で初優勝した(1963年度の第1回日本ラグビーフットボール選手権大会では優勝している)。岡は花園へ赴く。伏見工高が準決勝で黒沢尻工高を降した直後、球技場の通路で平尾と遇う。決勝戦へ向けて、岡が優勝した同大のツキを遣ろうと手を差出すと、平尾は「はい、いただきます」(『平尾誠二、変幻自在に』)と其手を握った。
「『ツキをあげよう』と言えば、普通の高校生なら『ありがとうございます』と返事するはずだ。『いただきます』は何かすごいと思った。『こいつは並じゃないな』」(同)
 1981年、「並じゃない」高校生は同大生となった。
「大学へ入って感じたのは、『選択の余地』がたくさんあるということでしたね。つまり、自由だった/部員は百人ぐらいいるんですけど、練習には六十人ぐらいしか来ない。『なんや、このチーム』というのが第一印象でした。それでも前の年は学生日本一をとってるし、不思議なチームやなと思いました/岡部長の奥さんの名前『クミ』とか、部長の『ヒトシ』というのをサインに使ったというのは、ほんとうですよ(笑)。初めは冗談で言ってたんだけど、『それ、ええやないか』と独特の関西人のノリで決まったところがある」(『イメージとマネージ』)
 日本で指導と言えば型に嵌めることだった。「きまり」を教えて厳しく守らせる。軌道の逸脱は許されない。岡は違った。
「『これをしろ』とはまず言わない。言うときも、物事を言いきらない。『このときはこう行けるでえ』とか『こういう考え方もあるでえ』とか、いろんなやり方を紹介するんですよ。でも結論は出さない。あとはお前ら決めたらええやないか、といなくなっちゃうんです。それでぼくも考え方の幅というか、目の向けどころもいろんな角度でできるようになりました」(同)
 高校生迄の平尾は、初心者の頃からのラグビー研究で培ったゲームの組立に関して、特に評価が高かった。山口が中学生の平尾に一目で惚れこんだ理由も其処にある。だが岡の平尾評は「おもろない」。
「『これはこうするだろうな』と思ったとおりのことをやる。グラウンドのスペースを見て、空いているところに必ずボールを蹴るし、そこを攻めようとしてる<中略>イメージの上をいくものがないから、『そんなん、おもろない』となるわけです」(同)
「非常に決め事の多いラグビーをやっていた。この傾向は、特に高校生の時に強かったですね。あまりそういう考え方に凝り固まると、今度はそこから抜け出せなくなるんですよ。ちょっと自分の読みがズレはじめると、すぐにボールを蹴って手堅くゲームをつくり直したりする。ダイナミックに動きながらゲームをつくり直すことができなくなるんです」(永田洋光『平尾誠二 リーダーシップの鉄則 最強の組織にこの指導力あり!』)
 FL/No.8として活躍した岡は、同大卒業後、後継者として家業の婦人服製造販売業に従事し乍ら同大ラグビー部の指導に当っていたが、請われて同部監督に専念し、やがて同大教授となる。ビジネスとアカデミクス双方の経験があるからか、自由かつ理論派だ。
 理詰は理詰でもデータ重視で型に嵌ったプレイだった平尾が、「人間がやっていると思えば、失敗することも許されるし、もっと可能性のあることを追求することもできる/試合中に何がおきてもおかしくないと思うし、そういう意味ですごく幅を持った考え方」(『イメージとマネージ』)に感銘を受け、「個人の発想が生きるラグビー」(同)に鍛えられた。
「『おもろいから、ラグビーやっとるんやろ?』先生はよくわれわれに言っていた。近年、アスリートがよく『楽しみたい』と口にするようになったが、そのはるか前の話である。当時、スポーツの指導者でそんなことを言っている人はいなかった。ただし、何かを『楽しむ』ためには、ある意味、命を賭けなければならない/命と引き換えてまで、そのことを楽しみたいと思えるかどうか、なのだ/本当に楽しむためには、命がけで取り組む必要があることを、自由とは与えられるものでなく、みずから勝ち取るものであり、そのためには厳しく自分を律しなければならないということをわかっていた。それがチーム・カルチャーとして根づいていた」(平尾誠二『求心力 第三のリーダーシップ』)

 同大ラグビー部には、3年上にのちにオックスフォード大学に留学し‘blue’を獲るLO林敏之、1年上に伏見工高の先輩でもあるLO大八木淳史、同期に東田や高校日本代表で平尾と共に戦ったNo.8土田雅人……と、逸材が多かった。
 前年度優勝の同大は1981年度大学選手権で連覇が期待されたが、準決勝対明治大学戦で「疑惑の笛」(同大ゴールライン目前のラックに跳びこんだ同大WTB大島真也がスタンピングを採られた。大島は「ラックが押されて危ないと思い、無我夢中で突っ込んでいた。そしたら突然、退場です。なにがなんだかわからない。蹴ってなんかいません」<『平尾誠二、変幻自在に』で引用された毎日新聞記事>)で一人少なくなってから崩れ、決勝に進めなかった。
 1982年5月、平尾は初めて日本代表チームに択ばれ、ニュージーランド遠征へ。「リザーブにも入れず、ジャージーにも着替えず、ブレザーを着たままビデオを回すのが役目だった。ところが、ケガ人が続出して、急遽出場する機会にめぐまれた」(平尾誠二『理不尽に勝つ』)対ニュージーランド学生代表戦に於いて、19歳129日の当時日本最年少で初キャップ。「初めてキャップをもらったときは、そりゃうれしかったですよ。ふつうは試合のあとに相手の選手とジャージを交換するんですが、ぼくはそれを断ったんです。それぐらいぼくの中ではすごく重みがあった」(『イメージとマネージ』)。
 其試合で活躍し、9月の三国対抗戦(日本・ニュージーランド学生代表・イングランド学生代表)で来日したイングランド学生代表との試合にも出場する。しかし、直後の対ジャパンB戦で右膝の皿を割り、平尾の'82-'83季は其処で終了した。明大を決勝で倒して(18-6)同大が優勝した冬の大学選手権にも出られなかった。
 1983年秋のウェールズ遠征に向けた日本代表菅平合宿、遠征メンバーに択ばれることを熱望した平尾は、膝の完治を待たずに参加し、練習試合で鼻の骨を折る。「『平尾、おまえ、鼻が折れて曲がってるぞ。そのまま固まるとあとの治療がやっかいだから、今なら間に合うから自分で引っ張って治せ』スクラムハーフの奥脇教さんから恐ろしいことを言われたので、自分で鼻を引っ張って」(『理不尽に勝つ』)出場し続け、翌日の試合も休まなかった。ウェールズには行くことができた。鼻筋は曲ったが。
 1983年度の大学選手権決勝、同大は日本体育大学に31-7で快勝する。「『爆発、燃焼、フル回転』のモットーを持ち、練習では『自覚して、真剣に、徹底して』がスローガン。今季初めて、監督制を廃し、原田ヘッドコーチを中心に7人のコーチ陣が岡部長の指示に従いアドバイス。練習方法も作戦もすべて田井主将を中心の自主性にまかせた。『ワクにはまらず、個を生かし、楽しくゲームする』岡イズムを体現し、しかも一貫したつなぎのラグビー。同大の連覇は技術、戦法とともに、精神主義が大手を振る日本ラグビー界に近代的な一石を投じたといえそうだ」(『平尾誠二、変幻自在に』で引用された毎日新聞記事)。負傷の癒えた平尾は連覇への貢献大だった。
 翌1984年度も同大は大学選手権で決勝(1985年1月6日対慶應義塾大学戦)進出。同大圧倒的有利の下馬評だったが苦戦を強いられた。
 前半5分、展開すると読んだ慶大ディフェンスの裏にスペースを観て平尾が真直ぐ抜ける。タックルを四つ躱して約四十m走り、右隅に先制T。17分にはFWが繋いで最後はSH児玉耕樹が中央に跳びこむ。26分にPGを返されるも、前半を10-3で終えた。
 後半は慶大の「魂のタックル」に同大は防戦一方、15分、平尾のオフサイドでPGを許し1T差に迫られる。20分過には同大陣左隅で慶大がスクラムを圧しに圧す。此処で平尾は「無理をすな、トライされてもいいぞ!」(『平尾誠二、変幻自在に』)と叫んだ。「ゴール前で無理してペナルティーをとられ、万一認定トライでもやられたらたちまち6点をとられて12-10と逆転されてしまう。それなら左スミでスクラムトライされてもゴールはむずかしいから10-10の同点だ。その後センターラインから同志社ボールで攻め込める」(同)。岡は「確かに平尾の言う通りなんです。理屈はそうです。しかしあの場面で、自分がゲームの渦中にいて、そう考え、そう言えるのはすごいと思います」(同)と評した。
 試合最終盤は同大ゴールライン前で慶大の猛攻が続き、到頭、ポスト脇に慶大の劇的同点Tか――スローフォワードの笛。得点が10-6の儘ノーサイドを迎え、同大は大学選手権史上初の3連覇を達成した。

 其頃、日本選手権は、成人の日(当時1月15日)に大学日本一チームと社会人日本一チームが一発勝負で戦う形式だった。1981年、1983年の同大は何れも、1979年から覇権を握り続ける新日本製鐵(現新日鐵住金)釜石製鉄所ラグビー部に敗れている。平尾が初めて出場した1984年の日本選手権でも釜石に10-35と一蹴された。
「釜石ラグビーというのは役割が非常にはっきりしてたんです。その役割をこなすことがチームの勝利に近づく/釜石と対戦して負けたけれども、ぼくらのやっているラグビーのほうがちょっとクリエイティブなものじゃないかという実感はあったんですよ。同志社は釜石とは逆で、ボールを持ったときの個人の発想や判断をゲームに盛りこんでいくというスタイルでした。ただし、リスクが大きいし、個人の発想やレベルが違うから、ムラがあるゲームになるんです/スポーツの社会というか、勝負事の世界は全部そうですけど、勝たないと正論としてとらえられないところがあるでしょう。だから釜石になんとか勝てるレベルまでもっていきたいという思いがありました」(『イメージとマネージ』)
 打倒釜石。同大は、ゴールを学生日本一に置かず、社会人チームを倒せる高いレベルのラグビーをめざした。命懸けで楽しんだ結果、チームは大学選手権を連覇した3年間の内でも最高の力を有するに至った。1984年春、学生チャンピオンが釜石と試合できる岩手県のIBC杯ラグビー招待試合で初めて勝利した。
 但、其試合に、1982年から監督兼選手として釜石を率いるSO松尾雄治はいなかった。
 松尾は、平尾の前の「ミスターラグビー」だ。勿論ジャパンでも中心選手。平尾が目標とする選手の一人であった(「僕はよう盗んだと思うんですよ/人の抜き方、パスの仕方、立ち方、サインの出す組立の仕方」<NHK「新春スペシャル 伝説の名勝負 不屈の闘志激突! '85 新日鉄釜石 vs. 同志社大学」>)。
 1984年秋の対フランスXV戦中に肩鎖関節を脱臼した際には、「『プレーできない』と訴えた私を松尾さんが退場させなかったのも、おそらく松尾さん自身も同じような経験をしてきたからだと思う。『これくらいなら十分できる』と体験的に知っていたから、『大丈夫だ』と判断できたのだと思う/あきらめずにプレーし続けたことは、あとになってみるとすごくよかった。その試合でフランスの『13番』をつけていたのは、つまり私と同じセンターというポジションにいたのは、当時『世界一のセンター』といわれていたフィリップ・セラだった。そのセラと長い時間プレーできたのはすごくよい経験になったし、何より、あの状態でプレーできたことは大きな自信となった。未知の局面を経験したことで、新たな自分に出会えた気がした」(『理不尽に勝つ』)。
 松尾のほうは平尾について、「初めて練習した時に『ものが違う。できが違う』と分かった。野球で言えば、大谷(翔平)君が入ってきたような感じ」(10月21日付ニッカン)と語る。
「平尾くんとの一番の思い出は、引退する前の最後のウェールズ遠征だった。俺が主将で、当時同志社大3年だった9歳年下の平尾くんが新人。ちょうど世代交代の頃だった。キャッチボールしただけで『こいつ、すげぇ。俺の後は彼がジャパンを引っ張るな』って本能で感じたよ。ちょこまか動くしかできない俺より、体が大きくて動きも足も速い。当時は俺がSOだったから、彼はインサイドセンター。試合中はほとんど話さないタイプでね。でも、すごくやりやすかった。こっちが何を考えてるか分かるんだよな。デカい外国人にもひるまず、タックルは『俺に任せろ』ってズバッと前に出る。とにかくすげぇやつだった。ジャパンはウェールズに(24-29で)負けたけど、『赤い恐竜』と恐れられたチームに大健闘した。もちろん彼の存在が大きかった。『飢えた狼は象にもかみつく』ってことで(当時の日比野弘監督が名付けた)『餓狼作戦』ってので戦った。俺は『がろう』って読めなくて、平尾くんに笑われたっけ。名前が『マツオ・ユウジ』に『ヒラオ・セイジ』。似たような名前だから、遠征に行く前に外国人のファンにサインをどう書いたらいいか、ローマ字で一生懸命考えた。で、紙に書く。すると平尾くんが横から顔を突っ込んできて『松尾さん、ダッセェ〜な』と。『素直に漢字で「松尾」でいいじゃないですか』。そう言われて『くっそ〜』って言って認めたもんだ」(10月21日付スポーツ報知電子版)
 但、当時の松尾には幾許かの敵愾心もありや。平尾は冗談めかして言う。「ぼくが十九歳で初キャップをもらったときは、松尾さんに『おまえはヘタくそだ』と言われていましたよ(笑)。よう怒られてましたわ。ぼくはたぶん嫌われてたと思います(笑)<中略>ご本人に聞いたわけではないですが/そのころはまだ若かったから、松尾さんの言うことはすべて正しいという感覚で、言われたことはできるだけやるようにしてました<中略>これはほんとですよ(笑)」(『イメージとマネージ』)
 1984年度の冬に話を戻す。松尾は心身共に限界を感じていた。史上初のV7に挑むラグビー界の大スターの'84-'85季限りでの引退が噂され、日本選手権に関する報道は松尾一色だった。
「松尾さんのためにあるような試合という気もしていた。そういう報道がされていた。それが悔しかった。ともかく、そのためにも勝ちたかった/松尾さんがというわけじゃありません。むしろ周囲のマスコミが騒いだのでしょうが、個人の引退がゲームそのものよりも話題になったのは残念だったといまでも思っています。ぼくはあんなふうにはしたくないし、なりたくない<中略>もし仮に引退するとしても、シーズンが終了したときに自然にそうすればいいので、今日のこの試合で引退なんてマスコミに取り上げられること自体、他の選手に失礼だと思います」(『平尾誠二、変幻自在に』)
「同志社の選手の間には『冗談やない。オレたちはワキ役やないぞ!』という意地とプライドに火がついていた」(ママ。『勝者のシステム』)
 「松尾のいる釜石」に勝つ機会は、もう此処しかない。

 そして、1985年1月15日がやってくる。国立競技場の客席は超満員の六万二千人で立錐の余地もない。
 松尾は1月6日に緊急入院、傷めていた左足首を手術して膿を出し、当日は麻酔を打って病院から競技場に直行した。
 同大は、強風の下、前半は風上から攻める。FWが予想より釜石FWに対抗でき、敵陣での時間が多い。
 4分、釜石のタッチキックがノータッチとなり、同大が球を継続。CTB平尾がタイミングを計って放した飛しパスからFB綾城高志が逆サイドへ斜に走り、内に返す。WTB清水剛志が捕まり乍ら躰を回して左中間にT。WTB赤山泰規はヒットの瞬間にバランスを崩してC失敗も、先制点を挙げる上々のスタート。
 9分、自陣ゴールラインに迫られ、なんとかTは防いだがポスト正面でオフサイド、PGを返される。
 16分、SO松尾勝博がタックルに来た松尾の背中越しに平尾へパス。通ればおもしろかったが、惜しくもノッコン。
 23分、松尾のロングキックをキャッチした平尾が、タッチライン附近のスペースを左右に使ってディフェンスをふりきろうとしたもののタッチラインを踏んでしまう。
 24分、ハーフゥェイと敵陣10mとのあいだのマイボラインアウト、最後尾の土田が捕る。パスと見せてくるりと前を向き、ゴールラインへ十数m迄ブレイク、ノールックで抛ったルースボールをFL浦野健介が拾って外に回す。最後は平尾が僅かにパスを遅らせ一人惹きつけてから大外の赤山に渡し、右5mのやや左にT。今度のCはスロットイン。同志社らしい華麗なT2本で先ずは優勢に試合を進める。
 28分、土田がマイボスクラムの中から手を使って球を出し、再びPGで失点。
 29分、松尾が足首をがちがちにテーピングで固めた左脚でDGを狙うも失敗。
 34分、敵陣のラックで児玉に「耕樹出せ!」と平尾の声がかかる。パスを受けた平尾がドロップキック。「なんでも宜いから点が欲しかった」(「伝説の名勝負」)。平尾のみならず同大としても珍しいDGで、7点リード(当時の1T1C差超)とする。
 が、37分、釜石の猛攻を受け、22m内に入られる。松尾のパスフェイク後の二人飛しパスから釜石BKに巧く繋がれ、最後は平尾のタックル及ばず右中間に決められた。13-12と1点差に肉薄されてハーフタイム。それでも初めて釜石相手に前半終了時点でリードだ。同大は勝利への自信を失わなかった。
 一方、松尾は独りドレッシングルームに退る(当時はハーフタイムが短く通常グラウンドに残る)。チームドクターに足首を診せたがとりたてて治療は受けずグラウンドに戻った。
 後半開始。いきなり釜石FWにスクラムで圧倒される。自陣22m内で激しく攻められた末にオフサイドを犯す。6分、PGで13-15と遂に逆転された。
 11分、釜石CTB小林日出夫がDGを失敗。
 13分、自陣22mと10mのあいだのマイボスクラムを堪え、児玉がダイビングパスアウト。平尾がショートサイドに放すと、BKもFWもなく滑らかに繋いでタッチライン沿いを上がり釜石ゴールラインに達するも、ドロップアウトに。
 19分、松尾がだれもいないディフェンスラインの裏へパント、自ら押えようとしたが、児玉が辛くも捕球しインゴールでダウンボール。ポスト左の釜石ボール5mスクラムから球を貰った松尾が、DGを狙うと思わせてステップでディフェンスラインの裏に出、完全にフリーの外に抛りTを演出する。Cも成功し、13-21と、1T1C差を超えるビハインドになった。
 23分、敵陣左15mの左、5mマイボスクラム。左8-9から児玉がショートサイドを攻めるも倒され、投上げた球を捕った清水がタッチライン際を駆抜けてT――と思いきや、児玉のパスがスローフォワード判定でノートライ。
 25分、平尾の飛しパスから赤山が約三十mゲイン、抛投げたルースボールを平尾が拾って土田に渡す。土田が蹴って、球はデッドボールラインを越えてしまった。
 26分、松尾勝博のパントがフェアキャッチされ、釜石がタッチに出して、ハーフゥェイラインから敵陣へ数m入った地点でマイボラインアウト。大八木が零れた球を拾損ねノッコン。釜石はスクラムから球を継続してロングキック、捕った綾城は蹴らずに持って自陣22mと10mのあいだで捕まりターンオーバー。釜石がまたボールをキープし、集散の良いFWが今で言うオフロードで繋ぐ。松尾勝博のタックルで停めたのも束の間、ルースボールを拾われ、28分、左隅にTを許した。
 リスタート直後、敵陣10mと22mのあいだのラックから9>10>12と渡って、CTB福井俊之が一人躱し二人惹きつけ綾城に投げる。綾城は巧みなステップで釜石ディフェンスをタッチラインに寄せ、空いたスペースへマウントパス。ゴールラインへ数mで赤山が捕り、直ぐFL芝全行へ。しかしT直前に倒されノッコン。
 釜石ボール5mスクラムが回って同大がノッコン、再度釜石ボール5mスクラム、インゴールの松尾がパスを受ける。麻酔のきれてきた松尾が蹴る前に芝が倒してキャリバック。5mスクラムは一旦ラックになるも再び同大ボールで5mスクラム。児玉がタックルを振払ってサイドアタックを試みたが結局は潰され、大きく跳ねた球を追った松尾勝博が狭いインゴールでぎりぎり押え損ねた。またまたマイボ5mスクラム、回されてタッチに出された。
 平尾は此場面を「あれBK欲しかったですよね/サイン出てたんですよ。でも意外に圧せたんでしょうね(笑)、ちょっと慾出たんじゃないですか(笑)」(「伝説の名勝負」)と振返る。
 それでもマイボラインアウトの位置は22m内、キープしてラックを制し、22m上マイボスクラムに。ダイレクトフッキングで8>9>10、松尾勝博が前進し二人にタックルされたが甘く、生きた球を浦野に出す。タックルを受けて大八木へ。松尾がタッチに出そうと腰に縋りつくがタッチラインは踏まず、サイズを利して右腕を伸し、35分、右隅にT。赤山のCは僅かに右に逸れたが、17-25と2T差につめる。
 インジャリータイム3分、大歓声で声が通らず、TV解説の日比野弘はNo.8の「8」と見たが実は「2C(2番<小林>の横にChida)」と松尾が空中に大きく書いたサインプレイで釜石No.8千田美智仁がポスト下にT、Cが決った処でノーサイド。
 17-31。
 同大の4回め(平尾は2回め)の挑戦は実らず、釜石フィフティーンは前人未到の日本選手権7連覇を寿ぎ、引退するリーダーを肩車して讃えた。

 実は平尾は密かに、此試合を最後にラグビーから離れようと考えていた。
「国内でやっている自分たちのラグビーが、思っていたよりも低いレベルで試合をしているわけです。その中で自分がこれからラグビーを続けたとしても何も得るものはないんじゃないかと、そんな感覚になったんです。このまま日本で続ければ“お山の大将”にはなれるかもしれないけど、ぼくが求めていたものは、そういうものじゃなかった」(『イメージとマネージ』)
「大学を卒業してラグビーをするためには、ラグビーチームをもつ企業に就職しなければならない。そのとき、本当に好きなラグビーが仕事と両立するだろうか。企業チームともなれば、会社のために勝つことが大きな目的になるだろう。そうしたなかで、自分は燃えるような思いでラグビーを続けていくことができるだろうか。また、今ある企業チームのなかから、自分のやりたい仕事を見つけられるだろうか/自分の考えているようなラグビーが仕事と両立するはずがない。それなら『社会人になってまでも、ラグビーをするのはよそう』」(『勝者のシステム』)
 とは言え若い平尾には「まだまだ自分はラグビーを高めることができるという確信もあった」(同)為、「悔いの残らないようにラグビーをやって、それから仕事に就こう、そう考えたのである。そのためには、日本にいてはだめだろう。国内にいれば、何をしても『ラグビーの平尾』として目につくだろうし、マスコミにも追いかけられる。思い切って海外に出てみよう」(同)と、「ラグビーの母国イギリスへの留学を決意した」(同)。
 日本でジャパン対アイルランドXV戦に出場したあと1985年6月に英国へ出発、先ずロンドン近郊のブライトンで3箇月の語学集中コースに通う。以前に神戸製鋼所で勤務しラグビー部にも所属していた英国人レジナルド(レジ)・クラーク(現在はラグビー用品メーカーRHINORUGBYのCEO。故奥克彦大使の親友でもあった)に紹介して貰ったロンドンのリッチモンドクラブ(「ロンドンでは二番目に古いクラブチームで、一〇〇年の歴史を超えるイギリスの名門クラブだった。いわゆるオープンクラブで、会費を払えば誰でも入会でき、わたしが所属していた時期には一〇〇名を超えるメンバーがいた」<同>)で発祥の地のラグビーも堪能する。
「スポーツが本当の意味で社会生活のなかに根づいて、人をリフレッシュさせるものになっていることを教えられた。そして、そのなかのメンバーとしてプレイできることが、このうえもない喜びになったのである」(同)
「チーム全員が同じメニューで、しかも毎日休まずに練習することが美徳とされている日本的なやり方に、以前から疑問をもっていたわたしは、『練習は自分のためにする』という考え方に大きな感銘を受けた」(同)
「日本の選手と比較すると、イギリスの選手のほうがトップスピードで走っている距離が長く、その量も圧倒的に多い<中略>ラグビーとはあくまでも走るゲーム。それがラグビーの面白さだということを、イギリスの選手はよくわかっているのである」(同)
「まっすぐ走ることを徹底して教える<中略>一人ひとりの選手がまっすぐに走ることによって有利なスペースが生まれ、より自由な攻撃が可能になる」(同)
「ラグビーでは、ボールを確保しているチームに攻撃のチャンスが生まれるから、ボールの継続が何より重要なのだ。だから、味方に『いつ、ボールを放すか』がゲームを支配する際には、最も重要な要素になる/わたし自身も、ゲームのなかでいつも、『いつ、ボールを放すか』を重要視してきたから、コーチから指摘を受けたことで『ああ、そうなのか』と、改めて自分のラグビーを確認することができた」(同)
「徹底的に『スペースをつくるラグビー』を教わった」(『イメージとマネージ』)
 が、8月。ブライトンのホームステイ先に日本のマスコミから電話が殺到する。
「アマチュア規定違反騒動」が沸騰したのだ。
 山口は人脈が豊富だった。平尾や大八木といった教え子をラグビー界以外の人々に紹介することも多かった。原宿文化を創った一人である実業家の松本瑠樹にひきあわされた平尾は、彼に「すごく刺激を受け」た(同)。大学卒業が近づく頃には、松本の「事業の進め方とか企画の立て方に関心を持ち/企画屋さんというか、プロデューサーみたいな仕事がしたかったんですよ。当時のぼくの中では、ラグビーよりも、だんだんそういう世界のほうがおもしろくなってきていた<中略>ラグビーのビデオを見ているよりも松本さんの話を聞いているほうがおもしろかったしね」(同)。
 文化出版局のモード系ファッション誌の男性版『MR.ハイファッション』が、音楽プロデューサー、ミュージシャン、松本、平尾の対談記事を企画した。松本から参加を打診された平尾は快諾し、渡英前に行われた取材では、用意されていた衣裳に着替えて撮影に応じた。
「ラグビーはアマチュア・スポーツのなかでも、とくに『アマチュア規定』が厳しい<中略>学生だったとはいえ、報酬を受けるような雑誌の取材は受けてはいけないことは、もちろんよく知っていた。このときも、対談に指定されていた場所に行ったら、すでにスタジオがセットされていたことから、『誤解を招かれるような記事は困る』と申し出たところ、担当編集者からは『雑誌の性格上、写真を少し載せなければいけないが、それも大した写真ではない。あくまでも対談が目的の記事ですから』という返事をもらっていた<中略>実際に取材時間の多くが対談に使われたのだが、雑誌ができ上がってみたら対談がほとんど使われず、写真主体のものにされたため、まるでモデルをしたように受け取られてしまったのである」(『勝者のシステム』)
 「一銭の報酬も受け取っているわけではない」(同)のだが、ポーズをとったグラビアに衣裳提供のクレジットが明記されているとあって、国際ラグビー評議会(IRB。現ワールドラグビー)がアマチュア規定を撤廃する(1995年)前、ラグビーワールドカップもない時代、「ラグビー界は、まだ世界的にもアマチュアリズムを守る意識が強く<中略>中でも強硬なアマチュアリズム推進派で、そもそも選手がラグビーと関係のないところでインタビューを受けたり、写真を撮られたりするのを徹底的に嫌っていた」(『リーダーシップの鉄則』)日本ラグビーフットボール協会にとっては大問題だった。平尾は10月のフランス遠征メンバーから外された。
 時差も考えず日本からかかり続ける電話のために平尾はホームステイ先に居難くなり、3箇月の語学研修を2箇月できりあげてロンドンに移る。
 「古い家具や小物などアンティークものに興味をもっていたことから、将来そうした仕事に進むことができればと考えて、インテリア・デザインの勉強もあわせてしたいと思っていた」(『勝者のシステム』)ので、「ロンドンに着いてインテリア学校へ試験を受けにいったんです。そこはインテリア・デザインのカレッジで、語学というより、才能重視型なんで、とりあえずデッサンを描いてこいということになった。いついつまでに三十枚描いてこいというんです。それでデッサンを見せたら『ああ大丈夫だ。筋がええやないか』と評価してもらえ」(『イメージとマネージ』)たものの、「アマチュア問題があって早く日本に帰らないといけない状況になり、結局、デザインの学校へは行けなくなった」(同)。
 「ああこのままラグビーを辞められるなあという気持ちもあ」(同)ったものの、「規定違反と認められれば、たとえ一銭たりとも金銭を受け取らなくても、その選手はもうラグビー界から去らなければならない」(『リーダーシップの鉄則』)ところ、平尾はまだ「疑わしき行為があった」(『勝者のシステム』)という段階だった。日本では松本が、文化出版局に抗議してラグビー協会に説明及謝罪をさせ、金野滋ラグビー協会専務理事の自宅に詫びに赴いた。金野は「平尾君は日本のラグビーにとってどうしても必要なんだ。将来ある人物なんだ/いずれは日本でプレーしてほしいと思っている」(『平尾誠二、変幻自在に』)と語ったと云う。
 そう思っていたのは金野だけではなく、平尾の許には大勢から、此儘ラグビーを止めるなとの声が届いた。「君を目指している若いプレイヤーはたくさんいるのだから、彼らのためにも君は、もう少しラグビーを続ける義務があるはずだ」(『勝者のシステム』)。「いままで自分のことしか考えずに歩んできた自分が、実はそういう見方をもって、自分の選択をしなければいけない立場にいることを、初めて気づかされた/それまでは自分で選択できるなかで『もうラグビーはやめよう』と決めてイギリスに渡って来たはずなのに、今度は自分では選択できない状況下に置かれると『もう一度、ラグビーがしたい』という強い衝動に駆られ」(同。ママ)た。フランス遠征チームを率いていた岡とパリで会い、ラグビーを続けるように説かれもした。
 平尾は日本でラグビーを続けようと決意し、金野に其旨の希望を伝えた。雑誌に写真が掲載された経緯やアマチュア規定違反の認識がなかったことを説明する手紙も送っており、日本の社会人チームに入ってプレイすることで名誉回復を図るのが良いだろうとなった。しかし、已に晩秋に至り就職試験は終了しているし、ラグビー部をもつ企業は騒動の所為で平尾の勧誘には及び腰だ。其処へ、神戸製鋼専務の亀高素吉が欧州出張でロンドンを訪れた。亀高は、秘書室長時代に社員の一体感醸成の為ラグビー部強化にとりくみ、それ以来、有力な学生選手のリクルートに注力してきた。同大からはSH萩本光威、林、大八木などを採っている。
 ほかの企業とは異なり亀高は騒動には動ぜず、平尾の日本でのラグビー継続希望を識るや、「うち、どうや」(『イメージとマネージ』)と誘った。亀高の熱意や誠意、英国で世話になったレジ・クラークが曾て神戸製鋼でプレイしていた縁、同大の先輩の存在。そして「京都生まれのわたしも、神戸の街は本当に大好きな街だった。また、神戸製鋼というチームも、監督制を敷かないなど割に自由な雰囲気があって、クラブチームに近い印象があった」(『勝者のシステム』)ことから、平尾は、騒動前には考えもしなかった重厚長大産業への就職を決める。

 平尾本人や周囲を翻弄した事件は、結果的には平尾を神戸製鋼ラグビー部に誘い、日本ラグビーの発展に寄与することとなった。



 神鋼入社以降は次回。
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平尾誠二経歴:1
 2016年には、北海道日本ハムファイターズが最大11.5ゲーム差を逆転してリーグ優勝/プレイオフを○●○●○/日本選手権を0勝2敗から制し、「超変革」の筈の阪神タイガースはBクラスに転落、武田勝(F)と福原忍(TH)が引退、と、NPBだけでも種々ありました。そして、デイヴィッド・ボウイを初めとして胸を衝く訃報が多かった印象。なかでも驚動甚しかったのは、「ミスターラグビー」平尾誠二死去のニュースでした。
 ということで、恒例の「マイベスツ。」はお休みし、平尾くんについて纏めておきたく存じます。以下敬称略。


 平尾誠二。
 1963年1月21日京都市生れ。家族は両親と2歳違いの兄。
 とても内向的な子供だった。最初に入った幼稚園は「登園拒否」。通園させようとした母を(年少さんの幼稚園児が!)投飛したと云う。「転園」した別の幼稚園を無事卒園して小学生になっても、クラス全員の前で大きな声を出してみなさいと担任教諭に指導されるくらい消極的で、どうしても学校に行けずに欠席することもあった。平日昼に自宅にいると罪悪感や劣等感が湧く。そんなとき、母が昼食の材料を買ってくるようおつかいを頼む。おつかいで「役に立つ」とすこし罪悪感が晴れ、翌日登校しようとの気持が生れた。徐々に欠席がなくなり、友達と遊ぶサッカーや三角ベースではスポーツの天稟が顕れた。
 1975年、京都市立陶化中学校(現凌風中学校)に入学。野球部やサッカー部の練習を覗くと「体育会系」の上下関係が目についた。が、平尾入学の前々年に美術教師の寺本義明により同好会として発足、前年に正式な部活動と認められたラグビー部は違った。平尾の知る少年野球の監督とは異なり、若い寺本は、生徒と対等にラグビーを楽しんでいた。できたてのクラブで三年生はおらず、二年生が十人程、一年生が二十人程。「体育会系」の雰囲気とは無縁だった。
 平尾はラグビー部に入部する。京都教員クラブの一員でもある寺本にラグビーのルールのみならず精神をも学び、平尾は自由で楽しいスポーツに夢中になった。虫明亜呂無『ラグビーへの招待』を始め入手可能なラグビーの専門書(「三、四冊しか出てなかったけど」<平尾誠二・松岡正剛『イメージとマネージ リーダーシップとゲームメイクの戦略的指針』>)を読漁った。父にラグビーシューズを買って貰った際には欣喜。「V7なんて全然。はじめてスパイクをはいたときの感激にくらべたら、屁みたいなもんです」(玉木正之『平尾誠二 八年の闘い 神戸製鋼ラグビー部の奇蹟』)。
 一年生の秋に初の対外試合でFBとして出場した平尾は、開始早々にタックルに行って脳震盪を起したもののフル出場した。試合結果は大敗だったが、ラグビーへの傾倒は深まるばかりだった。他クラブと校庭を共用し時間の限られる部活動に慊らず、自宅近くの公園で毎日キックを練習した。ほかの部員達も加わってきた。
 京都府では体育の日(当時10月10日)に西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場で「京都ラグビー祭」が実施されており、中学校秋季府大会で決勝に進むと、ラグビー祭に、土ではなく緑の芝の西京極で試合ができた。其処を目標に練習に励んだ陶化中ラグビー部は、「二十分ハーフで五、六十点とられて負けちゃうぐらい弱いチーム」(『イメージとマネージ』)だったのが、三年生の平尾が主将を務めた1977年に決勝進出。修学院中学校に10-5で勝って初優勝した。
 其決勝戦を山口良治が観ていた。元日本代表FL、1971年の対イングランドXV戦(3-6の大接戦)でジャパン唯一の得点を挙げた名キッカー、京都市立伏見工業高等学校(現京都工学院高等学校)ラグビー部監督である。
 後年TVドラマ「スクール★ウォーズ」のモデルとなった伏見工高ラグビー部は、1974年に体育教師として赴任し翌年ラグビー部監督に就任した山口の指導で、非行生徒の溜場から強豪へと変ってゆく。1976年には、前年に0-112で敗れた当時のトップチーム花園高等学校に、18-12で勝利。ちょうど平尾も其試合を観戦しており「それまででいちばんのものすごい感動」(山口良治・平尾誠二『気づかせて動かす 熱情と理のマネジメント』)に顫えたものだった。
 山口は教員クラブで寺本のチームメイトだった。試合後、寺本を介して平尾に会うと、CTBで司令塔を担った彼のキックを褒めたあと、要修正点をずけずけ指摘した。二年生のときにはもうステップで相手を抜くことができ「中学生のなかでは、ずば抜けてうまいと思ってい」(同)た平尾は内心むっとしたものの、「みんなほめてくれるばっかりで、こんなことを言ってくれる人はいなかったな」(同)と考え直した。
 山口のほうは、「『ああ、あそこのスペースがあいているな』と思ったら、ポーンとボールを蹴る。『早くまわせ!』と思えば、すぐにパスを放り、ターッとサポートに走る」(同)12番の中学生に惚れこみ、こんな子とラグビーがしたい、此選手に自分のようなラグビー経験をさせてやりたいと熱望していた。公立学校の教師として常ならば有力選手の勧誘などしなかったのに、寺本に紹介して貰い、平尾家に次男を伏見工高に入れてほしいと頼みにいったくらいだ。
 平尾は、籠り勝ちで何事にも自信のなかった頃は平凡な成績だったが、中学三年生時点では学年でも上位につける優等生。両親の頭に工業高校への進学という選択肢はまるでなかった。しかし平尾本人が、伏見工高の試合に感動した記憶や、日本代表の経験談など山口の情熱的な話に、「山口良治にラグビーを教えてもらおう」(同)と志望校を決めた。

 1978年に伏見工高ラグビー部に入部した新入生約三十人のうち半数程度は、京都府中学生選抜チームに択ばれた(主将は平尾が任された)好素材だった。其頃NHK「プロジェクトX」の題材にもなった伏見工高ラグビー部で山口の薫陶を受けたいと願ったのは平尾だけではない。此年には、伏見工高は京都府で三本の指に入る実力を有していた。
 昭和の強豪運動部はほぼ例外なく「体育会系」。情熱家の山口の指導に於いては、教え子への愛情からとは言え、激しい叱責や鉄拳はあたりまえだ。また、部室がタバコの吸殻だらけといった荒れた状況は昔のこと乍ら、「暴走族まがいの奴もいたし、教室でタバコ吸う奴もい」(同)た。自由で楽しい陶化中ラグビー部とは全く異質の環境に、平尾は当初なじめなかった。
「まず練習がつまらなかった。自分の発想を入れられる部分があまりなくて、練習がパターン化されているんです。だから、練習が終わるのが待ち遠しい」(『イメージとマネージ』)
 きつい練習に堪えかねて到頭「休ませてください」(『気づかせて動かす』)と恐る恐る山口に申出た処、怒られるどころか、良くなる迄休むよう労られた。山口は考えなしの体罰コーチではない。平尾の性格や資質を観究めて、彼をどなったり撲ったりすることは殆どなかった。果して平尾は、二、三日でずる休みは逃げだと気づき、ラグビー部に戻ってきた。と、あれだけきつく感じた練習が、辛くない。「ラグビーをすることが『権利』ではなくて『義務』になりかけていた」(同)と悟って「権利としてやるんだと思えるようになった」(同)から。「自分で気づく」ことの重要性が解った此経験は、平尾の大きな財産となった。
 1979年、ジャパンのウェールズ遠征で山口のプレイを観たことのある英国人商社員スティーヴ・ジョンスンが伏見工高ラグビー部のコーチをてつだうことになった。日本の「体育会系」とは哲学からして異なる、英国式の楽しく密度の濃い練習は、選手に好評を得た。厳しい指導で心身が鍛えられた段階の選手達には、きつい練習一本槍よりも効果があった。
 秋、「花園」こと全国高等学校ラグビーフットボール大会の京都府予選決勝戦のカードは、伏見工高対花園高。伏見工高はそれ迄に何度も花園高を破っていたが、花園への切符を懸けた都道府県予選では常に苦杯を嘗めてきた。前年の府予選決勝では、花園高のノッコンに笛が吹かれなかった処から逆転され、6-12で敗け。此年は漸く雪辱を果し、55-0の大差で完勝した。ポスト下への独走Tも決めたSO平尾のキックやパス、ランは勝利に大きく貢献した。
 花園では40-0、42-3と快勝で準々決勝進出も、ディフェンディングチャンピオンの国学院久我山高等学校に4-26で退けられた。チームが強くなりかけた頃に入部した三年生の多くは初出場の花園での八強入に満足を覚えたが、平尾等二年生は悔しさに扼腕した。

 1980年、山口は新チームの主将に平尾を任命した。
 目標に日本一を掲げるレベルに至っても「数人の部員が酒飲んで、信号にぶらさがって交通標識を壊した。それで補導された」(同)者達がいる。はたまた、中学時代からラグビーの実力が認められていた部員には、我儘な気質の者が多かった。目標達成へ各々が自発的に主体的に献身的に努力できるチームをつくるのは困難な状況だった。神経性胃炎を患い迄し乍らも、生涯の親友となったSH高崎利明など仲間の協力も得て、平尾はラグビー部を「日本一になるだけの『格』」(同)を具えた集団に変えてゆく。「説得力をもたせるためには、態度で示すしかない/練習でもゲームでも、ぼくが抜群のパフォーマンスをするしかない」(同)ので、誰よりも練習をした。
 それには二年生のときの経験も影響したかもしれない。伎倆も状況判断も精神面もとびぬけて優れる平尾には山口も一目置いており、それ故か卒業生や上級生も平尾だけは扱かなかった。大雨の試合で、平尾のハイパントを多用した試合運びが奏効して勝った。山口が新聞記者の電話取材に平尾を激賞し、それがおもしろくないほかの部員が彼の陰口を叩くのを聞いてしまった平尾は、酷くショックを受けた。平尾としてはチームの為に力を尽してきたのにチームメイトに妬まれるとは。しかし其処で「あいつらのことを憎らしいと思うんじゃなくて、矢印が自分に向いた/みんなそういうふうに思うのがふつうなんだな、と思った/みんなにとやかく言われないだけのものを<中略>ぼく自身がもたなきゃいけないんだと考えるようになった/矢印が自分に向かなかったら、ぼくの成長や向上はなかった」(同)。
 三月の近畿大会で決勝に進む。大阪府代表の大阪工業大学高等学校(現常翔学園高等学校)と戦い、2T(平尾の「密集を迫力で割って出よった」<早瀬圭一『平尾誠二、変幻自在に』より山口の言>Tを含む。当時1T=4点)を奪い乍ら、1T2PGの大工大高に8-10で敗れた。山口曰く「今思い出してもカッとなるぐらい、たくさんペナルティーをとられました」(同)。
 平尾が京都府選手団の旗手を任ぜられた十月の栃木国民体育大会でも決勝戦で大工大高と当る。前半は0-0。後半、伏見工高が2T1Cで10-0とリードする。ノーサイドが迫るなか大工大高が1Tを返すも残り時間は僅か。が、ラストプレイで平尾の奥へのキックがタッチを割らない。大工大高ボールとなり、伏見工高の反則もあってフェイズを重ねられ、大工大高WTB東田哲也のポスト下TのあとC成功で同点。両校優勝も、伏見工高にとっては敗けたようなものだった。
「もう、悔しくてね。いつもMVPでいなければいけないと思っていたぼくが、最後にミスしたわけだから」(『気づかせて動かす』)
 痛恨は日本一へのモチベーションを愈々高めた。1980年度全国大会、大方の優勝予想は、大工大高か伏見工高のどちらか。平尾は、個々の力では大工大高が上だと分析し、数的優位をつくる戦略を立てた。各員に為すべき戦術を授け、そして、「戦況に応じて責任分担を素早く指示し、『この場はすべてお前に任せる。頼むぞ』と全権を預けるのである。これで奮起しない部員はいない<中略>平尾一人に苦しい思いをさせてはならぬ、そう部員が思ったとき、伏見工は全国制覇への道程をぐっと縮めたのである」(馬場信浩『スクール・ウォーズ 落ちこぼれ軍団の奇跡』)。
 花園の京都府予選、伏見工高は準決勝迄を大差の完封で勝抜き、決勝の対花園高戦も1Tを許したのみの44-4。大阪府の大工大高は、準決勝迄ほぼ百点ゲームで失点0、やや減って53得点だった決勝で1PGを与えただけと完勝で全国大会に進んだ。
 第1シードの大工大高、初戦の2回戦(対佐賀工業高等学校)こそ、気の弛みか宿舎のエレベータで定員超過から宿に迷惑をかけ監督の拳が飛んだ事件があって39-14とややてこずったものの、3回戦以降は熊谷工業高等学校や大分舞鶴高等学校などを相手に毎試合36点以上獲って無失点。
 伏見工高は第2シード、2回戦・3回戦は62-0・51-0と楽勝も、準々決勝の対秋田工業高等学校戦で伝統校のFWに圧されてスクラムTを喫するなど大苦戦。而も平尾が左大腿筋断裂の重傷を負った。3回戦を前に正WTB有沢喜生が右手を切った為に先発していた控WTB栗林彰が平尾のハイパントを好走して押え、辛くも16-10で勝利した。準決勝ではやはり伝統校の黒沢尻工業高等学校と対戦し、今度はこちらのFWがスクラムTを挙げて28-10で降した。
 決勝戦の朝、脚の動かない平尾が宿舎の山口の部屋を訪れる。山口は平尾の脚をマッサージし乍ら昔話をし、「今日の試合はおまえと心中だ。痛いのはわかっている。立つのが精一杯だろう。もう何もせんでいい。グラウンドに立っているだけでいい」(『気づかせて動かす』)と語りかけた。
 痛止めの注射を打ち、試合直前の円陣で「楽しむぞ! 1時間楽しむんだ!」と仲間を励ました平尾は、脚の自由が利かない焦燥を山口のことばを憶出すことで消し、的確な判断と精確なキックで大工大高を翻弄した。だが大工大高には地力があり、伏見工高は平尾以外にも、高崎が胸鎖関節損傷、栗林は脱臼癖のある肩を試合中に二度外し、No.8小嶋信二は強烈なタックルを受けて瞼が腫上がり右眼は殆ど見えない。
 伏見工高が前半5分のCTB細田元一のPGで先制するも、前半を終えて3-0の僅差。それでも平尾は「負けるなんて全然思わなかった<中略>『ようやくここまで来たぞ!』という感じだけ」(同)。ハーフタイムでも山口になにも言わせず、ポジティブな「勝ちモード」(同)を維持した。後半6分、東田のPGで3-3の同点に。大工大高の「勝てる」の思いは過信に類した。細かいミスが其処此処に生ずる。東田は勝越PGを外す。30分ハーフの後半も終りかけ、平尾の脚の麻酔が切れる。再び両校優勝かと思われたとき、マイボスクラムから零れた球を掬ったFL西口聡がスクラムサイドを突破して力強くゲイン、捕まり乍らも高崎へ生きたパス、高崎は平尾を飛しCTB森脇嗣治へ。大工大高ディフェンスが乱れ外にスペース。絶妙なタイミングのパスを受けた栗林が疾走して左隅へ跳びこむ。長く語継がれる劇的な勝越Tが決った。インジャリータイムも緊迫の攻防が続く。そして、平尾がマイボスクラムからのパスを斜に蹴出し、ノーサイド。7-3。
 日本ラグビー史に残る名勝負を制した伏見工高が2回めの花園で日本一を成遂げた。

 平尾は、高校日本一になった試合のあと、「絶対トライ出来ることを信じていた。練習量では勝てなくても、質ではどこのチームにも負けていない」(『平尾誠二、変幻自在に』で引用された毎日新聞記事)と語った。17歳にして已にのちの平尾誠二を彷彿させる。
「わたしは、子供の頃から自分を客観視する習性があった/自分の手や顔という肉体的な部分と、それを意識する視覚、知覚の部分が別々なのだ、という感覚が小さい頃からあったのだろう」(平尾誠二『勝者のシステム 勝ち負けの前に何をなすべきか』)
 客観視は理性の基だ。約三十年も前、伝統の名の下に己の頭で考えることなく「上」に従う旧い日本のスポーツ界、延いては日本社会に異を唱えた知性が、幼い頃から息づいていたと判る。其「理」の平尾が、先ず「情」の山口に多大な影響を受けたことは興味深い。
「わたしは『理』の人間だとよく言われる。たしかに、わたしは理屈でモノを考える。しかし、その原点には、山口先生の優しさや情熱に対する強い共感がある。先生の『情』が、私の『理』を引き出してくれたともいえるのだ」(ママ。『気づかせて動かす』)
 純粋な愛情をかけられると、かけたほうの意図を汲もうと、真剣に考えるようになる。それは、理解した意図を具現する為の行動に繋がる。そもそも情がなければ人は動かないものだ。だからと言って行動迄も情に流されては誤ったほうへ向いかねない。情に発して理で動くのが良かろう。
 更に、己を追いこむぎりぎりの限度を若いうちに把握することは、其後の人生に非常に有用だ。伏見工高で厳しく鍛えられたからのちの平尾がある。「伏見での三年間が、ぼくのキャパシティをすごく広げてくれた」(同)と言う平尾は、3年のあいだでもとりわけキャプテンとしての1年間で成長した。
 たとえば、毎日練習後に部員に話をする際、彼等に気づきを与えられるよう、話し方を探求した。平尾が重視する「『釣り針』のようなもので、相手の心に一度刺さったら、抜けないような」(『勝者のシステム』)ことばはこうして培われた。
 最も大きいのは、「媚びない、キレない、意地を張らない」(『気づかせて動かす』)の徹底を学んだことだ。低きに迎合せず、感情的にならず現実的に考え、意地を張って相手をキレさせない。これは、日本一後の高校日本代表の豪州遠征で主将としてチームを率い成功を収めるなど、ラグビー人生に於いてほぼ常に発揮してきた平尾のリーダーシップの根幹を成す。

 情熱と厳しさで能力を開花させた平尾は、このあと、自由と論理で花弁を拡げてゆく。



 長くなっちゃったので、大学入学以降はまた後日。
| ラグビー | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
Champions are BACK!!!
2季に亙り競技会への出場をお休みしていたアイスダンスのヴァーテュー-モィア組が、「プレ五輪シーズン」の今季、競技に復帰しました。
競技復帰に当り、練習拠点をモントリオールに移し、コーチをマリー=フランス・デュブルイユ&パトリス・ローゾンに変えたのを始め、スタッフも一新したと云う二人は、9月29日の‘ISU CS Autumn Classic International 2016 Montreal’で優勝したあと、グランプリシリーズでもスケートカナダとNHK杯に連勝、満点の30ポイントでグランプリファイナル出場を決めた。表現者のみならず競技者としても伎倆の高さに翳りのないことを証しました。
GPFも纏めて今季前半戦の備忘録をしようと思ってたのに、どーもテレ朝ch.でGPFの放送が(少なくとも年内は)ないみたいで。テレ朝とBS朝日ではそもそもアイスダンス(とペア)は映らないので(儚い望みだが、NHK、放映権を奪回してくれ〜)、慌ててスケートカナダとNHK杯のレビューだけ。

*GPFも結果・得点は記録しておきますので、識りたくない方は記事の最後は見ないで下さいませ。



今季のSDは、曲がプリンスメドレー(‘Kiss’‘Five Women’‘Purple Rain’)。存命中に曲を決めたケースもあると思うが(プリンスは4月に死去)、羽生結弦のSP然り、今季はけっこープリンス使う選手がいるよね。R.I.P.。
衣裳は、女性が、ラヴェンダーブルーのレース地にサファイアブルーのラインストーンを鏤めたノースリーブハイネック(両肩の裏に細いストラップ)のトップ、襟正面にはラインストーンがとりまくブラックストーンを花のようにシンメトリーに並べ、其中央から共布のたっぷりしたレースを垂す。背中は腰迄V字に全開、ラベンダーブルーをすこし覗かせて直ぐに黒のタイツに切替。切替のラインは前身頃の胸下へ続く。タイツの両サイド膝上迄とヒップ上部に、肌色生地をラインストーンで縁取った大柄の蔦模様。トップと同系色のブリリアントなピアス。男性は伸縮素材の黒の上下、前だけ大きく返して煌々しく飾った裏地を見せ、左前身頃に配した六つの飾釦を横に二つ宛チェーンで繫ぐ。

先ずはスケートカナダ、7番滑走で登場(今季はランクに関係なく完全抽籤で滑走順を決定)。
背中合せのポジションでヒップホップパートが始まる。くっと背ろに振る首、ぱっと背ろに蹴上げる靴、総ての動きが曲と同調。Hipな音楽と一体の踊りで一気にリンクを演技に惹きこみ、最初の要素、ノットタッチミッドラインステップ。さすがのユニゾン、レベル3乍らGOEは+3.30(一人だけ+2、あとは+3)。そしてブルースパートへ。プログラムの其処此処に過不足ない頻度で人指指を立てての動作が入り、リズムが変っても統一感が保たれる。ノットタッチミッドラインステップ直前の女性が男性の顔を叩くような振付、また、パターンダンスの前に男性が前髪を掻上げたり、小粋なアクセントが、技術に重きを置くSDなのにショーを観てるかのよう。今季のパターンダンスはミッドナイトブルース。ん〜エッジ深い。女性の仕種や表情のコケティッシュなこと。もう27歳かぁ……。但、第1キーポイントでTimingをとられレベル3、GOEは+1.20。続くパーシャルステップはレベル3でGOE+2.20、細かくステップを踏みホールドチェンジも多いのに、変化がとってもスムーズなので曲に合せてゆったりして見える。レベル4、GOE+1.37のトゥィズルに客席から歓声が挙る。流れるようなトランジションに連続してカーブリフト、レベル4、GOE+1.80(一人だけ+2、あとは+3)。サイドバイサイドの位置から、イーグルの男性が女性の右足を取って右大腿の付根に載せ、女性が瞬時男性の頸許に片手を置いてさっとリフト。女性が左脚で男性の頭を背ろから跨いで男性の両大腿に乗ると、両脚をぴんと伸し、上半身を弓形に反らして両腕を大きく振上げてから、男性が膝が直角になる程に落していた腰を上げつつ女性の躰を一回転させ、いったん肩に載せて下ろす。其儘ぴったり横に並んだ二人が揃って片膝を深く折ってから伸上がり、動きを入れて回転し乍ら、向い合って握り合った拳を衝上げるフィニッシュへ。
演技終了直後に男性が“Wow!”と叫んで二人でlow five。後述のとおり男性は氷に戻るのはスリルだったと語っており、相当に安堵も含まれた“Wow!”なんだろーな。
得点が出る迄に間があったので、男性がカメラに“This must be so big...too big to read”とおどけ、客席から高得点を促す拍手が響いたのちに発表されたスコアは、TES39.57+PCS37.66(SS9.32/TR9.18/PE9.50/CO9.50/IN9.57)=77.23。SD2位のチョック-ベイツ組に1.02差をつけた。
ISUサイトの男性のコメントは、“It was a thrill for us to be back out there on the ice, a great start to our season. We’re really looking down the road to PyeongChang and kind of started our journey again today. We left some points on the table level-wise and that we’ll be looking to improve, but for end of October we’re very pleased”。

NHK杯。6番滑走。
ノットタッチミッドラインステップはスケートカナダより歯切好く、レベル4のGOE+3.14。パターンダンスも三つのキーポイント総てYesでレベル4、GOE+1.37。パーシャルステップはレベル3判定も、GOEはスケートカナダより若干高い+2.36。レベル4のトゥィズルは、スケートカナダでずれた、キャッチフットし乍ら人指指を高く掲げる処はぴったり合ったものの、最後で男性が僅かに安定を欠いた。それでもGOE+1.11。このあとのトランジションで女性のスケートがちょこっとつっかかる。とは言え、絶妙なバランスのカーブリフトはスケートカナダと同じくレベル4、GOE+1.80(一人だけ+2、あとは+3)。フィニッシュのポーズが、拳を握り合うんじゃなく男性が女性の手首を握るかたちになってたのは、変えたのかしら、タイミングが合わなかったのかしら。
パーシャルステップ以外はレベル4で揃え、TES41.58+PCS37.89(SS9.36/TR9.25/PE9.68/CO9.46/IN9.61)=79.47。ソチ五輪でのメリル・デイヴィス-チャーリー・ホワイト組の78.89を上回り、ISU公認大会での最高得点記録を更新した(当然PBである)。
完璧だった訳ではないのに此点数なので、試合を重ねて踊りこんだ「本番」の世界選手権(GPSは「世界一決定戦」なんかじゃないからね!)にはどんな演技が観られるのか楽しみです。
男性曰く“Tessa and I are very pleased with our skate today. It felt pretty similar to what we’ve been done in training at home. We had some work to do to bring our levels up and it was nice to get a couple of level fours and we’ll continue to work technically”(ISUサイトより)。


FDは、曲がCoeur de Pirateの‘Pilgrims on a Long Journey’とSam Smithの‘Latch (Acoustic)’。
衣裳は、女性がアースカラーの膝丈ドレス、身頃はリボンを巻きつけたイメージのデザイン。リボンは最後に右腰から翻る。肌色生地で、両脇腹、胸許、背中を刳って見せる。やや透ける柔らかいアシンメトリーなフレアスカート。左腰前と背ろ中央にウェスト迄のスリット。ドレスと同系色の円いメタル調ピアス。男性はタイトフィットなダークネイヴィ(光の加減でコバルトブルー)の上下、右脇から腋下へ、左脇から肩の背ろへとシースルー地の切替が入る。

スケートカナダ。8番滑走。
スタッカートにきびきびと刻む踊りがクールだったSDとは対照的なプログラム。二人が逆を向いて横に並ぶ。哀感を帯びたピアノが静かに始まる。soundをvisionで表した儚さが、脆く頽れる寸前、流れるようなスケーティングで優雅に奏でられてゆく。何時の間にかステーショナリーリフトに入っている。男性の膝が60°くらいしかなさそうなシットスピン姿勢から些かの淀みもなく、女性のスケーティングレッグが氷を離れ、男性がアップライトになり乍ら女性を横抱きにし肩の位置で1回転後、スターポジションの女性を頸の周りを回して下ろす。ペアスピンに匹敵するような速度で回転しつつ次々にポジションを変える女性を持上げ乍ら立上がる――を、絹の滑らかさで完璧に美しく熟す。レベル4、GOE+1.80(一人だけ+2、あとは+3)。折った両脚を前後に開き腰を落して直ぐ躰を立てキャッチフットで始まるトゥィズルは、残念、女性にスタンブルがありレベル3のGOE+0.51。ホールドチェンジやらトゥィズルやら多彩なステップやら種んなことをしてるのに飽く迄たゆたうようなサーキュラーステップは、レベル3もGOE+2.51。男性のハーフループから入るローテーショナリーリフトはレベル4、GOE+1.63。トラベリングが殆どなくフリーレッグがぴんと伸びたコンビネーションスピンはレベル4、GOE+1.54。スピンのイグジット近くからヴォーカル曲に替る(んだけど実に自然で前の曲の続きかのよう)。長調に変って踊りに力強さが加わってくる。音楽の変化を豊かに表現するダイアゴナルステップはレベル3、GOE+2.36。ミラーが効いたコレオトゥィズルはGOE+1.60。ストレートラインリフトでは、いったん持上げ損ねたものの巧くカバーし(そーゆー振付なのかと思った)、イーグルの男性の右脚の付根に女性が右足で乗ってぐっと男性の右側に上半身を張出し左脚を宙に伸す。重心は男性の躰の外に来る訳で、バランスとり難そうである(イーグルだし)。男性が回転し乍ら下ろし、レベル3、GOE+1.46。GOE+2.00のコレオリフトで回りつつ二人が氷上に跪き、男性の掌に後頭部を預けた女性の顔を男性が覗きこんで終了。
TES55.21+PCS56.62(SS9.39/TR9.29/PE9.46/CO9.50/IN9.54)=111.83。
FDではサーペンタインステップを除く六つの要素でレベル4を獲ったチョック-ベイツ組(112.03)に次いで2位乍ら、総得点は189.06、SDの貯金で優勝。
ISUサイトより男性のコメント。“Tessa and I were pretty excited about this week. This wasn’t the free dance we’ve been doing in practice, but we were excited with having fought through it. It’s a stepping stone for Tessa and I, we’re just starting to build. Getting back on to the ice under this pressure is something we have to learn to do again”。

NHK杯。8番滑走。6分練習でバックスケーティングしてきたシニツィナ-カツァラポフ組とニアミス、女性のスカートを気にしてたけど、なんもなかったようで善哉善哉。女性の腿の高さにブレードが来てたからひやっとしたよ〜。
ディフィカルトポジション、而もポジションチェンジが息を呑む程滑らかなステーショナリーリフトはレベル4、GOE+1.80(全員+3)。トゥィズルも今回は完璧で、レベル4、GOE+1.80(全員+3)。レベル3のサーキュラーステップ(GOE+2.83)、レベル4のローテーショナリーリフト(GOE+1.80。一人だけ+2、あとは+3)の完成度も向上した。コンビネーションスピンはレベル4、GOE+1.54。ダイアゴナルステップもレベル3乍らGOE+2.83。コレオトゥィズルはGOE+1.40。今回はストレートラインリフトに失敗がなく、右臑を持ち、左脚を伸した女性を一回転させて男性の右脚の付根に載せる。ほんとはこんな難しい入りだったのか。リフト後の女性の上半身もスケートカナダより反っていてきれい。レベル4、GOE+1.37。GOE+2.10のコレオリフトの最後、女性が男性の頭を掻抱く振付になりました。個人的にはスケートカナダのフィニッシュのほうが好いかなぁ。しかしそんなんはどーでも宜い。うっとり〜な出来でした。
TES58.77+PCS57.60(SS9.50/TR9.43/PE9.75/CO9.61/IN9.71)=116.37、PB。
総得点は195.84、SDに続きデイヴィス-ホワイト組@ソチ五輪の195.52を抜いて史上最高得点を挙げた。
女性は“It feels great to be back, we’re excited to build on this momentum as we head into Grand Prix Final”、男性は“Tessa and I always have been a team that doesn’t really pay attention to the points. It is kind of great to hear that you got a world record score, but it doesn’t really mean very much. For us, the focus is just on our skating and just being in the mix again”だそうです(何れもISUサイトより)。


エクシビの曲はジャスティン・ビーバーの‘Sorry’。
衣裳は、女性が畝々模様とラメラメフリンジで飾ったダークパープルのミニドレス、両肩紐が頸の背ろで4本に垂れる。男性は、長袖を肘下辺り迄捲った黒いTシャツの胸にマゼンタで番の鳥の刺繍、右袖にも同様の刺繍、黒のジーンズ、ベルトも黒。
アクロバティックなリフトなどはないものの、バックビート気味な処のある曲を巧く表現。楽しい踊りのなかに粋が光るおしゃれなプログラムでした。



少女まんがの深窓の令嬢と不良少年みたいなルックス、齢ににあわぬ高い伎倆と表現力、ヴァーテュー-モィア組がいれば恋愛映画は要らん!と虜になったのはもう随分前のこと。まだ若いのにプロ転向なんて〜と泣いてたので、競技復帰はほんっっっとに嬉しい!
GPFを前にした現地8日付で、ISUサイトに二人のインタが載ってました。
アイスショーに出演したりCBSやTSNで放送に携わったりして競技から離れていた2季のあいだに、CD/OD/FDだった試合形式がSD/FDに変り、若いカップルがどんどん擡頭してアイスダンスというスポーツが新たなレベルに昇ったのを見ていて、些か脅威に感じつつ、同時に“it is a great feeling”だったとか。
ブランクを経ての好成績にデュブルイユ&ローゾンのコーチのお蔭みたいなことも話してた。教えそのもののみならず、パパダキス-シゼロン組やフォルニエ=ボードリ-ソレンセン組といった能力のある若手と切磋琢磨できる環境がすばらしいんだそうです。若いカップルにインスパイアされ、彼等にもヴァーテュー-モィア組の経験(二十年も組んでるものね)が役立てば、と。
NHK杯の優勝インタで女性が、競い合いや目標やがんばることが恋しかったと言ってて、アスリートにとってcompeteが第一なのは勿論だけど、それだけじゃなくて、驚異の若手も何時しか27歳と29歳、競技全体を展望する視点に立つようになったのでしょうか。
史上最高得点については、これ迄も点数については注意を払ってこなかった、多分これからの2週間でうちやぶられる、とのこと。
男性曰く、“We like the challenge, that’s why we came back”。challengeを重ね、数字で計れない高みへ昇る二人を観るのが楽しみです。

ところで、ローゾンの愛称って「パッチ」(Patrice>Patch)なのね……。



駄弁。
今季、ひさっびさに女子をちゃんと観たんですが、アシュリー・ワグナーがすっかりオトナになってて吃驚。それに較べ、へんねケヴィン・レイノルズはすこしも成長なさらないようね。アダム・リッポンは齢相応なので、髪型の所為だろうか。



   *   *   *



以下、GPFの得点とISUサイト(SDFD)より選手のコメント。

SD。2番滑走。
TES42.16+PCS38.34(SS9.50/TR9.39/PE9.71/CO9.54/IN9.79)=80.50で最高得点記録を更新し1位。
女性は“It’s not hard to find the energy when you’re skating to Prince. Right off the bat with that ‘Kiss’ music it’s infectious. We love the movement, we love the feeling of the program, in fact we have to bring the energy down a bit to control our emotions. With the crowd here in France it is amazing and as Scott said we were present in every single step. We really wanted to showcase the improvements we’ve made since NHK (Trophy). Each competition is a stepping stone”と語った。

FD。6番滑走。
TES58.58+PCS58.14(SS9.57/TR9.57/PE9.71/CO9.75/IN9.86)=116.72はPB(パパダキス-シゼロン組の史上最高得点118.17@2016年世界選手権には及ばず)。総得点197.22はこれも最高得点記録を更新し1位。
GPFでは初優勝で、男性は“For us to get this title is really huge. It wasn’t really an objective for this week so it kind of makes it the frosting on the cake. For us, just competing against these young and fantastic athletes again is huge and an honor. We can’t wait to keep growing”と喜んだ。
| フィギュアスケート | 00:29 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
111年めの歓喜と……
現地5日――2日にMLB/シカゴカブズが山羊の呪を解いて108年振にワールドシリーズチャンピオンの座を勝獲った数日後、シカゴのソルジャーフィールドでラグビーのテストマッチが挙行された。米国に於けるテストマッチ史上最多の62,300人を集めたカードはニュージーランド対アイルランド。

1905年に始まる此対戦、過去28試合でABsの27勝1分と、IREはいちども勝ったことがない(IREがテストマッチで戦って白星のない唯一のチーム)。2013年11月には、一時は19-0でリードし乍ら、22-7から最後には22-24で逆転敗を喫している。しかもABsはテストマッチ18連勝中。アイルランド人と、ソルジャーフィールドの大半を埋めた緑の装いのアイルランド系米国人以外は、ABsの勝利を予想した筈だ。

IREは前半3分にPGで先制するも、4分には逆転Tを許す。が、7分にムーディ(ABs)が危険なタックルでシンビンを科されると、一人多いあいだにIREが2T1Cを挙げて再逆転。ABsがPGを返せば直後にIREもPGで突離し、33分には更にT(C成功)を決めて25-8、前半終了時点のリードとしてはIREの対ABs戦最多タイ(17点)を記録した。後半7分にもTを加えて30-8としたあと、ABsが漸く反撃を開始する。11分・15分・22分と3T(総てC成功)を重ねて(18分にPGを献上)4点差(33-29)に詰めるも、35分にだめ押しT(C成功)を喰らい、結局は40-29で、IREが緑の客席と歓喜を分ち合った。

ABsは、LOのツインタワー・ホワイトロックとリタリックを故障で欠き、第3列のカイノをLOに起用して試合に臨んだ。しかも早々にCTBクロティが負傷退場、更にはWTBモアラも怪我をして、リザーブバックローのA.サヴェアをWTBに緊急配置することに。

とは言えIREも、前半25分にFLマーフィが担架で退場、故障明けだったプレイスキッカーのセクストンも脚を傷めて交代と、万全だった訳ではない。

ABsは前半だけでラインアウトを三つ失い、モールを度々圧され、らしくないハンドリングエラーやミスキック、犯したペナルティは相手の倍以上、ターンオーバーされたのもIREの4に対してABsが8だった。タックルミスが多く、ブレイクから再三Tを許した。

観てて、点差以上にABsがだめだめに思えました。ABsは如何なるときも完璧、とみんなが期待しちゃうことから来る、「絶対王者」の宿命ですかね。

いや〜、ABsの連勝が18程度で止るとは、大抵の人が驚いたんじゃないか。V10の目標も大言壮語に聞えなかったNPB/福岡ソフトバンクホークスの十倍百倍の、次元の違うぶっちぎり振だったからねぇ。

IREはほんとに嬉しいと思うんですけど、心よりお祝申上げますけど、111年めの歓喜の光が眩しい程、影は濃くなるってもんで。
webに、手負の獣のABsは怖いぞ、てな記事がありました。月内にアイルランドで予定される再戦が俄然楽しみですなぁ。
| ラグビー | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
フィギュアスケーターのオアシス♪KENJIの部屋 羽生結弦編1
何時の間にやらフィギュアスケートの'16-'17季が進行中。振付師の宮本賢二がホストを務めるJスポのトークショー「フィギュアスケーターのオアシス♪KENJIの部屋」も回を重ねてて、初期の高橋大輔篇とか鈴木明子篇とかがおもしろかったんでずっと観てるんですけど、昨季の若い選手達の喋れなさが酷くて、やってることを言語化するには年季が必要なんだわねぇと実感しました。
(11月から中庭健介と本田武史がゲストの「若手コーチスペシャル」だそうなのでそれには期待)
そんななかで中学生の島田高志郎の確りした受答え(ちゃんと「おかあさん」じゃなく「母」って言うのよ!)に感心したのを機に、もっともっとレベル高い羽生結弦の回('15-'16季)をそろそろ書留めておくこととします。
本blogのインタ載録では通常は最低限のケバ除り程度なんですが、今回はそれだと長くなりすぎるので、或程度整理してます(特に宮本賢二の発言)。つっても、お仕事だったら絶対やらないくらいにほぼテープ起しママ状態ですけども(だから番組公式サイトの再録とはやや異なります)。


―トーク番組出演は
「織田(信成)さんだとか選手同士はあったんですけれども、振付師、コーチという立場の方と対談というのは初めてですね」
―今の気持は
「意外と緊張してて。ふつうのインタビュー形式の対談とかではないので、けっこう緊張するなっていう感じはありますし、逆に、賢二先生とだからこそのリラックス感っていうのも今、味わってます」
―二人の関係は
「アイスショーのオープニング、フィナーレに関しては賢二先生が基本的に振付をされていますし、あとは自分のエキシビションのプログラムを何回も賢二先生に振付けて戴いているので、そういう関係で、何時も、えー、良くして戴いてます(笑)」
―宮本賢二の印象は
「僕から言えることって何があるんだろうな、たくさんの方々がもうされてるんで。なんて言えば宜いか判んないですけど、僕の印象は、非常に細かい処迄拘りをもっている方だなぁと何時も思っています。怖くはないですし、寧ろすごい明るいなぁとか、僕はやはり東北の人間なので、関西のノリと言うか、そういうおもしろい処があって良いなぁって何時も思ってます」
―どんな話をしたい
「ふだんインタビューというかたちでは聞けないような話をしたいなぁということもありますし、また、賢二先生とのトークなので、振付の話だとかスケートの話を、選手と振付師というかたちのなかで盛上げていけたら良いかなぁと思ってます」

宮本賢二の羽生評。
「(ふだんは)ふつうの、きゃっきゃきゃっきゃ騒ぐし。(それでも)練習になると一切何も見えないぐらい集中する。スケーティング練習しなさいって言ったら、1時間ずーっと練習して、けっこうやったんですけど先生どうですかって言いにくる、ほんとにすなおな子で。イヤホンとか音楽機材とか好きなので、ぱっと振付したら、じゃあ5分て言えばぱっと(イヤホンを)してずーっとやってますね、練習を、休むことなく。振付中に休んでるとこ見たことがないですね」

インタ本番(以下、「」なし=宮本賢二、「」あり=羽生)。
だいじょうぶ、課題終った?
「終りました」
がんばった?
「がんばりました」
疲れて――
「テンション低いですね(笑)」
テンション低いな(笑)。(宮本賢二のブランド「Charme JAPAN」のジャケットとTシャツを着ている羽生に<宮本賢二も同じTシャツ>)なんかごめんね、気ぃ遣って戴いたみたいで
「気は遣ってない――ふ、ふだんのファッションです、これは!」
ありがとう! ……休みとかちゃんととれてんの?
「そう……ですね……まぁ……大学の課題も種々あって。やっぱり大学生なので、ちょっとがんばってます、種々」
勉強はちょっと、教えれる処が少ないかもしれないけど
「いや、ぜひ! ぜひ、教えて貰います」
(笑)じゃ、ま、今日は宜しくお願いします
「宜しくお願いしまーす」
忙しいやろけど、最近どうしてんの? ちゃんと休みはとってんの?
「最近どうしてるのと言われると、仕事がたくさんあり、アイスショーがたくさんあり、と言うか。だいたいスケートと、あとは仕事関係に、ほぼ時間をとられています」
何歳やったっけ
「廿です。今年21です」<2015年放送
多分ほかの人はねぇ、いや仕事がねって言わないもんねぇ
「大学が、くらいは言うかもしれないですね、ゼミが、とか」
で、プラス勉強せなあかんもんね。大変やな
「大変です」
仕事やろ、スケートやろ、大学の勉強やろ。そのなかでとれた時間は何してんの
「んーとー……最近其時間がなさすぎて。大学の課題がけっこう忙しくて、けっこう切羽詰ってる状態なんですけど、ほかは、ゲームしたりとか」
ゲームとかはできてるんだ
「できるときが、あれば(笑)」
移動中とか
「そうですね。移動中でもけっこうパソコン持歩いてレポート書いたりもしますけど」
ちゃんと休みや
「それいろんな方が言って下さる――もうちょっと休ませて下さいって僕が言いたいですもん」
(スタッフ?に向って)休ませて下さい。(羽生に)釣行こ、釣。釣したことある?
「ないです。釣ゲームはよく小っちゃい頃やってましたけど」
じゃあだいたい解るよ。今度行こ行こ、休みをちゃんととって
「休みをちゃんととって」
琵琶湖へ行こう
「琵琶湖ってけっこう釣れるんですか」
そうですねぇ……(羽生笑う)好い感じですよ。(いきなり何やら憶出す)ごめんね、前に「壁ドン」のやつ(宮本賢二オフィシャルブログに、羽生が織田信成に壁ドンして背後で鈴木明子がきゃーってやってる画像がポストされ話題に)でさ、わーってなっちゃって迷惑かけたかなと思って
「いや、だいじょうぶ……です、だいじょうぶ、です(笑)」
反響とかすごかった?
「すごかったですねー、ほかのイベントなのに壁ドンの話しかされなかったっていうのは憶えてます」
(笑)どうも、申訳ございませんでした。練習の合間にちょっと遊んでやっただけやったのにね
「遊んでるだけなんですけどね。此処迄いろんな意見が飛んでくるとは思わなかったです(笑)」
俺も吃驚した、いきなり急上昇(blogのアクセス数と思われる)とかで。でもまぁ、ファンの人もさ、種々あったし、大変なこともあったやろうから、笑顔が見せれるって好いんじゃない
「笑顔じゃないですから(真剣な顔をしてみせる)」
めっちゃこんなやった
「めっちゃ真剣な顔でしたから」
今ちょっと壁ドンやっちゃった?
「やってないです。やってないです、壁ないし」
空気ドン
「フリが雑」
雑やろ俺
「賢二先生、実は雑ですよね、割と」
マジ? そやな、去際もてきとーに去るしな
「そうなんですよ、何処迄踏みこんでいったら宜いか判らないときがあります」
だいたいなんでもだいじょうぶ。じゃ、ちょっとまじめな、スケートのほういこか
「きりかえし(笑)」
(笑)スケート始めたきっかけっていうのは
「僕は姉が――4歳上なんですけれども――始めて、ほんとに追いていくだけで、スケート始めました。ありきたりかもしれないですけれども、別にスケートが好きで始めたとかそういう感じではなくて、別にやらされた訳でもないんですけれども、唯単に姉がやっていることだったから、姉といっしょにいたいし、みたいな感じで、はい」
追いていって滑ってて直ぐにのめりこんだとかいう訳でもないの
「のめりこんでもないですね、僕。唯姉の背中を追いかけて、ていうことばがいちばんしっくりくるんじゃないかな」
今お姉ちゃんがめっちゃ喜んでると思うよ
「いやでも、なんでわたしのことばっか言うのって逆に思うと思います」
(笑)仙台って言うたらさ、(荒川)静香ちゃんもそやし(幼児期から仙台で育ち東北高等学校卒業)、(田村)岳斗先生もそやし(青森県出身だが東北高等学校卒業)、(本田)武史先生もそやし(福島県出身だが東北高等学校卒業)、みんな固まってるよね
「特にあの世代が、長野五輪のときなんかは、日本選手って言ったら宜いんですかね、ペアも含めて、四人が仙台から出てるので。しかも全員先輩なんです」
あ、(荒井)万里絵ちゃんか(宮城県出身で東北高等学校卒業)。それ見てたら影響するもんとかあった?
「僕、長野のことあんまり憶えてないんですよね。但、仙台で練習するに当って種々言われるんですよね、TV局の方からも『此リンクから誰々が出ましたよね』とかっていう話はされてたんで、自分も出れるようにしなきゃなみたいなことは、考えてなくはなかったです」
だって、小学校何年生かのときにインタビューで金メダル獲りますみたいなこと言うてたんでしょ
「断言してましたね、確かあんとき、金メダル獲りますって。オリンピック出たいですか、夢はオリンピックですかみたいなフリ方されるんですけど、金メダル獲りますみたいなことは言ってました」
で獲っちゃったよ
「獲っちゃいましたね……」
もう……すごかったね
「ショートだけ。ショートだけすごかった」
俺はなんて答えたら宜いんや
「(笑)ブライアン(・オーサー)に特別に言われた訳じゃないんですけど、ブライアンさん自体も、オリンピックで金を逃したときに、フリップミスしてんですね。フリップ1回ステップアウトしただけでブライアン・ボイタノさんに敗けたんですよ。僕もフリップミスってるんで――サルコウもミスってますけど。通じる処があって。しかもステップアウト。僕はディダクション付いちゃいましたけど――両手突いちゃったんで――かたち的にはステップアウトなんで、ブライアンの呪かなんか来たかなみたいな(笑)」
それブライアンに言うといたほうが良いんじゃない?(笑) でもまぁ優勝はしたんやけど、現地に着いたときに、モチベーションと言うか心境と言うか、どうやったの
「変んなかったです。なんも変らなかったです。ふつうでした。ふつうの試合前の緊張感でした。僕、緊張するとすごい喋るタイプなので――緊張しすぎちゃうと。良い緊張のときってなんも言わないんですけど、緊張しすぎちゃうとすごく喋っちゃうので。だから、すっごいぺちゃくちゃ喋ってたかって言われたらそんなこともないし、ふつうのテンションで。良い状態で入ったんです。で、団体戦のときに、まさか自分のなまえ呼ばれる前にロシアコールだったとは思わなくて、ずっと『羽生、羽生』って言われてると思ってて僕、おーっこんな期待されてる!みたいに。すげー期待されてる俺そんな有名なのかな、みたいな感じで行って、ノーミスして、おっしゃあ!って思って、あ拍手少ない〜みたいな、あれー羽生コールしてたのにな、みたいな」
そんなことがあったんや
「団体戦のときはそうでした。でも個人戦のときは違って、プルシェンコさんが途中で棄権されたじゃないですか。それがきっかけで、もう会場はけっこういなくなってたんですね、ロシア人の方が。で、拍手もけっこうまばらで。それなのにも拘わらず自分がショート終ったあとはみんなもうマラヂェーツって、ロシア語で言うとすばらしいみたいなブラボーみたいなこと(つーか「よくやった」のニュアンス)のコール、すごかったんですよ。団体戦のこともあったから余計めちゃくちゃ嬉しかったと言うか感動したと言うか、そういうのはソチオリンピックで多分いちばん印象に残ってる処だと思います」
日本人(男子)初のフィギュアスケートの(五輪)金メダル、貰ったときにはどういう感じやったの
「……自分で種々想像してて――けっこう表彰式の想像とかしちゃうんですよ、僕って。メダル貰ったとき何しよう、とか。小っちゃい頃からずっと、オリンピックで金メダル獲ったらこういうインタビューが来る筈だからこういう風に答えようっていうのを全部考えてたんです。小学校のときから。絶対オリンピックで金メダル獲ろうと思ってたから」
考えた結果は?
「結果、なんも出てこなかったっすね」
(大笑)
「なんにも出てこなかったんですよ。実際にそれ迄、ショートもやってフリーやる迄にずっっとおんなじようなこと考えてたんですよ。小学校からこう言おうと思ってて、で、フリー終って、1位確定して、インタビューのゾーン通るんですけど、其ことば、一つも出てこなかったですね」
小学校のときから温めてた、これを言おう、ていうの、2、3個教えてくれへん
「取敢ず、今迄教えて貰った先生のなまえを総て言おうと思ってました。此方々が支えて下さったからですっていうのを一つ一つ、(生)中継だから、全部言おうと思ってたんですよ……出てこなかったですね〜。出そうとは一瞬思ったんですけれども、詰ってるし、プレスカンファレンス行けよみたいな空気だし(笑)」
(笑)忙しいもんね
「忙しかったんです。でブライアン待ってたし。ブライアンずっとこうやって(両掌を合せる)待ってたから、拍手しようと、ハグをしようと、ありがとうみたいな、握手しようと、思って待ってたから、言えなかったんですよ」
ほかにはなんかなかった
「あとは、名言みたいの残したいなって思ってたんですよ。自分なりの名言残したいなって。感謝の気持的なものをもっと格好好く言いたいなって思ってたんですよ、小っちゃい頃から。それこそ(町田)樹くんじゃないけど、難しい漢字のことばで言いたかったんです」
いや、それはどうかな〜(撮影スタッフから笑い)
「最終的にオリンピックで金メダル獲りましたけど、最後『感想は』(マイクを突出す格好)、『悔しいです』って言って帰りました、僕」
でも、良いんじゃない、そのほうが
「僕らしさが残って良かったかなとは思ってますけど」
ちょっと待って、俺は別に町田くんのことばを否定してる訳ではないっていうのは――
「でも否定的な感じで言いましたよね(笑)」
本人にね――
「ティムシェル(『エデンの東』より)。汽水域の如くとか言ってましたね。汽水域の如くなんたらかんたら(「今シーズンを一言で例えると!」の問に「河口における汽水域(の様な…)」)って言ってて、ん?てなったのは憶えてます」
みんなが?マークがずーっとあるし、本人に直接って言われへん感じが見えたから、久々会ったときに、おまえ何言うてんの? どういうこと?て言ったら、あいつもまじめやから、最初から全部説明してくれるの
「(笑)何分かかりました、それ」
途中で切ったよ。いや、だいじょうぶやわ、ありがとうって
「あれは、元からずっとそんなに喋るタイプの選手じゃなかったから、僕も最初吃驚して。でもあれが彼なりの集中のしかたって言うか、そういうのもあったと思いますし、そういうの聞くとなるほどなってけっこう頷けますよね」
(話を戻す)獲ってみてどう、イェーイって感じ?
「んー……もっと種々変るかなと思ったんですよ、自分の心境が。スケートに対する思いだとか、試合に対する緊張感とかも。もっと自信ついて、何か変るかなって思ったんですけれども、変ったのは周りだけで――周りと僕のスケジュールだけで(笑)」
なんか今グレーゾーンに入った(笑)
「ほんとに、試合に対する気持とかは全く変らなかったですね。あとは、何時も思うのは、フリーがあまり良くなかったって言うか、自分のなかではやっぱり課題が残ってしまう演技だったので、それがまた良かったなと。自分がこれから競技続けることを見据えたうえで、あそこでパーフェクトやって燃尽きた、ていう感じじゃなくて良かったなとは思ってます」
何時でも挑戦をするタイプなんやね
「ですね。なので、逆に過去がどうのこうのっていうのにひきずられ易くはあるんですね。例えば「パリの散歩道」、2年間やらせて戴きましたけれども、最初の大会でノーミスして、次の試合でもノーミスして、ノーミスが3回ぐらい続いたあとに急に跳べなくなっちゃった時期があって。前の試合では跳べたからだいじょうぶ、前の試合でも跳べたからだいじょうぶ、此プログラムは絶対跳べるから、て感じで緊張を紛らわすときがあるんですね、僕、けっこう。だからそれにひきずられるとだめなので、オリンピックによって、更にもっと自分の今の演技に集中しなきゃいけないなーみたいなことはすごく感じさせられました」
なんか……深いな……(羽生笑う)「深いな」の一言で済すのは悪いよね、でも……俺は何も言えない
「言わんかーい(笑)」
トップでいることって大変やん。だから……ことばでは、難しい
「オリンピックのチャンピオンになって、で、次のシーズンってやっぱりすごい期待はされてたと思うんですよね。其すごい期待のなかでどうやって滑っていくかって考えたときに、最初の試合――アクシデントがありましたけれども、其前のショートプログラムでは其プレッシャーに圧潰されてた感じはあったんですよ。後半に4回転入れるって言って3回転になってしまいましたし。自分が、過去に何々だからみたいな、勿論オリンピックで金メダル獲ったっていうのもあるし、ファイナルとか世界選手権で三つ獲ったっていうのもあるし。それに総て囚われてた処はあるなと。其囚われてること自体に罪悪感をもつっていうこともあるなって思ってて。勿論、其試合試合で勝ちたいとは思うんですけれども、勝てば勝つ程、追われる立場っていうことを意識するので、其処がまた難しい処なのかなと、去年思いました」
(深い溜息)うん
「コメントし難いですね(笑)」
いや、やっぱりみんなちゃんと考えなあかんなーと思って
「多分これは僕自身しか経験できてないことだと思いますし、やっぱり四年に一遍の舞台で金メダルを獲るっていうのは並大抵なプレッシャーではないと思うんですよね。オリンピックっていうものもだし、そのあとこれからずっと続く称号なので、それとどうやって向合っていくかっていうのは、多分これからの自分のいちばんの課題かなと思います」
がんばって。なんかあったら直ぐ連絡して。こういう話とかもあるから(両耳にイヤホンをする仕種)。偶に楽にならないと。これ(視野狭窄のポーズ)って集中してすごい良いって言うけども、これイコール視野が狭くなってしまうことがあるから
「僕でも意外と、一般的な考えとして、賢二先生も思ってるかもしれないですけど、スケート一本!みたいな、スケート一途みたいな勢いありますけど、意外とそんなんでもないんですよね(笑)」
だって喋ってるときあんまりスケートの話せえへんもんね。だいたいイヤホンの話と、音楽の話と。これからもっと種々ジャンルを増やしていきたいんちゃう? でも嵌ったら嵌りすぎるもんね
「一個嵌るとそっちに手ぇ着けられなくなるんですけど。剣玉とか。去年すごかったですね、ずーっと剣玉してました」
それにつられてほかのみんなもずーっとやる。だから去年のアイスショーとかの控室が全員静かやったよね
「カチカチカチカチは鳴ってましたね」
偶に俺が行って、俺もやりたいって、まぁ俺だいたいできひんやん、で、そんなのもできないんだなっていう、笑いじゃなくて、みんなのこうやって――
「冷たい視線がくるんですね(笑)。でもこないだやってたとき、3回ぐらいやったら『もうええわ』って」
そんな話はええねん!
「いいんだ(笑)」

(フィギュアスケーターのオアシス♪KENJIの部屋 羽生結弦編2に続く)


高みに立った人が其処からしか観えないもの(僕自身しか経験できてないこと)を語ってくれるからこそ、人類は万物の霊長に成得た訳で。羽生という稀代のアスリートが、深く考えてことばで説明できる能力も兼備えてたのは、僥倖です。
| フィギュアスケート | 20:29 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |