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世の中は何か常なる

野球(阪神、ファイターズ、斎藤隆、アストロズほか)、フィギュアスケート、ラグビー(海外)、ホッケー(NHL)、テニス(ATP・WTA)、映画(洋画)、海外ドラマetc.についての備忘録。
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フィギュアスケーターのオアシス♪KENJIの部屋 羽生結弦編2
 そろそろ2018年フィギュアスケート世界選手権が開幕しますが、羽生結弦は怪我の治療に専念する為欠場。羽生と言えば66年振フィギュアスケート五輪男子シングルズ連覇、てことで、長らく放置してた、振付師の宮本賢二がホストを務めるJスポのトークショー「フィギュアスケーターのオアシス♪KENJIの部屋」で'15-'16季放送された(ので2015年現在の話)「羽生結弦編」第2回の載録です。なんだって「てことで」なのかは、今回記事の最後を御覧下さい。
 或程度整理してます(特に宮本賢二の発言)。以下、「」なし=宮本賢二、「」あり=羽生。


みんなに尋いてんねんけど、ダブルアクセルってさ、いちばん最初の壁っぽい、それは何時跳べたん?
「あれは……小学校――3年生かな。3年生の終りぐらいに跳べてたのかな。ですかねーですかねーですかねーですかねー。小4だっけか。3年生で跳べてるよねぇ(画面の外のスタッフ?に尋く)、て言うぐらい、自分で憶えてないんですけど。初めて全日本ノービス出させて戴くときに、ダブルアクセル跳べないと話になんないので、かなりダブルアクセルというものにはこだわりはすごくありましたし、それにそのとき教えて戴いてた都筑(章一郎)先生が、アクセルはほんとに、キングオブジャンプじゃないけれども、アクセルが跳べないと此先何もできないからって。自分の練習時間けっこうあったんですけれども、ほんとに4分の3ぐらいずーっとアクセルに費してました」
スケート始めてだいたいどれぐらい?
「シングルアクセル跳べるのも異常に早かったみたいで、吃驚されてたみたいなんですけど、自分ちゃんと憶えてないんですけれども」
やっぱあれやわ、変やわ
「アクセルは、変人だと思いますちょっと」
変人て、自分で言うてる(笑)
「それぐらい好きなんですよ、アクセルは。アクセルがいちばん好きなので。特別感あるじゃないですか、アクセルって。(ほかのジャンプは)全部後ろで締めるし、全部締方が横じゃないですか、でもアクセルって縦に締めるじゃないですか。其感じがまた」
ダブルアクセルからトリプルアクセルのときは、何か変えたとかこだわったとかあったん?
「……たぶん根本的には変ってないと思います。僕自身すごくイメージを大事にするタイプなので、初めてダブルアクセル跳べたときは、姉の見てて跳べたんですけれども」
えっ? 見て跳べたん?
「そうなんです。ずっと跳べなくて跳べなくて――跳べない期間もひとよりは短いと思うんですけれども――姉が跳べてるジャンプをぜっったい跳んでやるみたいな気持と、あと、こうやって跳べればこうやったら跳べるんじゃないみたいな感じで跳んだのは憶えてます。トリプルアクセルもおんなじなんですよ。浅田(真央)選手が、全日本の合宿のときにいて、其時に、浅田選手あんなに細いし、あんなに華奢な躰って言うか、筋肉とか使わなくても跳べるんだって思って。じゃあ僕も跳べるよねって思ってやったら跳べたので」
2回めか3回めで跳べたって話なかった?
「あのときは――あの練習でたぶん3回めぐらいで跳べてます。2回めでステップアウトかなんかして『跳べる』って思って、練習時間1分2分ぐらいおしたんですけど、跳べましたふつうに」
おかしい(羽生笑う)。おかしいでしょう
「そのあとアクセルが跳べない時代がすごく長かったんですけれども僕。1年ぐらい結局きちんと決んなかったと思います、試合で」
でも、3回めで跳べるって――(カメラの向うで示されたフリップを読む)「賢二先生は3Aいつ跳べた?」て……
「(笑)酷いフリ方しますよねぇ」
実は俺シングルもやってて、ルッツ迄いちお跳んでたのよ。但フリップが苦手でダブルフリップがひん曲ってたんやけど、じゃトリプルアクセルを練習しようかなと思ってやったの。まぁ、跳べへんかったから、難しいから、4回転にいったの俺。4回転トウを野辺山で練習して、こうバック走ってくるやん、で、跳ぶやん、3回転以上は回るやろ、(席を立ってジェスチュア。背ろの壁に向い)こう降りたん
「それ3回転半ですね」
壁やってん。で、ばーん!てなって(壁に当る)、まんがみたいにずるずるずるずるって落ちたの。俺ジャンプ向いてないなって言って、辞めたの
「え、でも3回転半は回ったんですよね。アクセルもやれば良かったのに、じゃあ」
いや、怖い。怖い
「たぶん、アクセルやったら回ったかもしれないですよ」
アイスショーでさ、俺がシングルアクセルを跳ばなあかんかったときに、(羽生が)「あれ、手ぇ変ですよ」って言って
「確かに変だった。確かに、変でした(笑)」
俺、あんとき(シングルズ時代)に言っといて貰ったら跳べたかな
「(笑)でもね、夫々骨格とかも違うから判んないですけど、賢二先生は跳方が変でした、確かにあのとき(制作陣爆笑)。多分長年シングルというあれから離れてたっていうのもあるし、ダンスのエッジってけっこう違うんじゃないですか」
いや、今はね、ダンスのエッジはシングル(と同じ)
「じゃやっぱり跳方が……」(制作陣爆笑)
俺デスドロップみたいな跳方で跳んでたの。教えて貰ってからちゃんと跳べるようになりました。ありがとうございます
「いえいえいえ(笑)」
次にとりくんでいってる新しいジャンプみたいなのは
「いちおルッツは1個だけまぐれで降りたんですよね、4回転。すっごいぎりっぎりの奴。くぉおー!ってなって(右腕をぐんと突張る)。一発だけ降りたんですけど、あれから練習はあんまりしてなくて。ま、試合もありますし。何よりトリプルルッツ-トリプルトウの確率が低すぎて」
(宮本賢二と共に苦笑)
「先ずそっちをだいじにしなきゃなっていうのと、あとは、曲によって僕けっこうジャンプのタイミング変っちゃうんですよね、けっこう曲聴いちゃうので。例えば、昨年('14-'15季)やったバラードなんかは、曲が三拍子だし、ゆったりな処とか緩急がすっごいあるんですよね、其緩急によってもジャンプのタイミングのずれみたいなのがあって、ちょっととり難かったなぁとは思ってます」
確かにストレートのジャンプとカーブのジャンプがにあうっていうのは曲によって違うよね
「違います」
4回転ルッツ跳んだあとさぁ、ちゃんとトリプルルッツやっとかなあかんかったやん、練習で。其時の感覚が判らん、トリプルルッツ跳べないって言ってたもんね
「言ってました」
感覚って全然違うんやね
「そうですね。あと、そういう話で言うと、僕、ダブルアクセル跳べないんですよ今。トリプルトウループもすごく難しいんですよほんと。僕、手ぇ拡げてダブルトウループとかやるじゃないですか、ダブルループとか。だからトリプルやる機会が殆どないんですよ。ダブルやったあとにもう4回転やるので。トリプルトウループめちゃくちゃへたなんですよ」
なんか、変やん
「アイスショーかなんかのグループナンバーでダブルアクセルを跳ばなきゃいけなくって、何回か、前にこけそうになりました」
ダブルアクセルの感覚はないんや
「ないんです。空中姿勢こんなんなって」
できるだけ軸を緩めて。それは着地も怖いね。きゅっ・ぱっ、じゃないんやもんね
「おわぁあってなっちゃって。それこそ賢二先生が先刻言ってた前に行ってかーんってなるパターンですよ」
俺の話は出さなくて宜い!
「(笑)」
じゃ、あのー、荒川静香ちゃん(に)は昔から良くして貰ってるの
「昔からと言うか……僕は見てるだけだったなーっていう感じはあります。小さい子達、まだ級をあんまりもってない生徒って言うかスケーター達と、トップのスケーター達っていっしょに滑る機会って殆どないんですよ、同じクラブ、リンクだったとしても。だから、すごいなって見てた憶出はありますけれども、荒川さんと喋った記憶もあんまりないですし、どっちかって言うと、僕、(田村)岳斗さんに良くして貰ったなっていう話はちょっとあります(笑)」
あー、岳斗先生。KENJIの部屋に一度来て貰った――
「乱入してきたって奴ですよね」
そうそう、で、早く帰れって。(2014年10月放送の高橋大輔篇の一部が映る)まさか今日岳斗先生来てないですよね(真顔で制作陣に尋く)
「此フリは……まさかの(笑)。だいじょうぶ、椅子がもう1個ないからだいじょうぶです、用意されてないから。用意されてたらちょっと怖いです。ほんとに岳斗先生は、リンクでマッサージ受けてるときとかに声かけられたりしてました。荒川さんとか本田さんとかに声をかけられた記憶って全然ないんですけど――あるかもしれないですけどあまりにも小っちゃすぎてなくって、でも岳斗さんに何か話されてて、なんかちょっかい出されてたのは憶えてます、ちょっとだけ。(笑)ちょっかいっていう表現がだめですね。話をして下さった、て」
(笑)そんなこんながあって、ノービス時代からけっこう注目されてたやん。そんとき俺フランスに住んでたからさ、それでも聞いたことあるとかやったし。世界Jr.優勝したんやったっけ。中2?
「Jr.は優勝してますけど……それが中学校3年生ですね。卒業式とおもっきり被ってたんで(笑)」
じゃ卒業式の憶出はJr.――
「あ卒業式、僕、独りでやらせて戴いたんですよ。校長室に、紅白の(幔幕)掛けて貰って、独りで『羽生結弦』『はい!』みたいな感じで(笑)やりました。そのあと、ほんとは独りだけだったんですけど、中学校のときのクラスメイトがいっちばん好きなんですけど――中学校3年生のクラスメイトで仲好い子達がいっぱい集まってて、教室帰ったらぅわーっってなって、『結弦おかえり!』みたいな。めっっちゃ嬉しかったですね。学校生活っていうなかでいちばん印象に残ってることと言うか、いちばん憶出が深いのが中学校3年生のときですね僕」
そういう人はだいじにせなあかんで。同窓会とか開けば良いよ。言ったらみんな集まってくれるでたぶん
「そうですね」
じゃ、Jr.時代の憶出とか苦労話とかある?
「('09)世界Jr.1年め出させて戴いたときに、13位、かな(SP11位・フリー13位・総合12位)、だったんですけども、独りで出場して、絶対に枠一人でも増やしてやるって思って行ったんですね。それで1枠しか結局獲れなくてっていう、しんどかった憶出はあります」
けっこう悔しかった?
「いや、けっこうじゃないですね。もうものすごい悔しかったです。元々自分けっこう練習時間少ないタイプで。世界Jr.に向けて追いこんだんですよ、ちょっと時間増やして。其時に腰を初めて痛くしちゃって。で、1週間前にシングルアクセルも跳べない状態で、先ず起上がれなくなっちゃって。其状態で挑んだ世界Jr.だったので、かなり、其頃の自分なりに、怪我したことと言うか、そういう状態になってしまったことが悔しかったですし、其処で全く以て自分の力が発揮できなかったことも悔しかったなぁと思ってます」
でも其経験が今活きてるんやろうね
「そうですねー、あの頃の憶出はものすごく活きてると思いますし。あの頃けっこう自分に言訳してた部分があって――腰痛いからしかたないよねって、例えば捻挫してるからしかたないよねって。そういうことをすごく自分の心に言ってたと言うか。勿論周りにも言ってたんですけれども。そういう経験から、僕は、言訳を絶対したくないっていうのは、はい、身につきました」
恰好好ぇなぁ
「なんか……言訳してる選手って殆どいないんですよね、強い選手で。何処何処が悪かったからとか、リンクがこうだったからとか、そんなこと言ってたら何も始まらないし、それは自分の実力の向上にならないじゃないですか。どんな状況でも跳べる人がいる訳なんで。だって浅田選手なんて骨折し乍らやってたりしたじゃないですか。それは誰にも――誰にもって言うか、メディアとかに自分から発信することは絶対なかったと思うんで、そういうことってだいじだなと思ってます」
どうしたん、恰好好ぇやん
(背ろを振返って)「恰好好い人だれかいらっしゃいました?」(猶も宮本賢二に「恰好好ぇやん」と言われ更に振返ったあと笑う)
それで、世界Jr.で優勝したのが、オランダのとき? 其時はどうやった?
「あのときは、勿論、前の世界Jr.のときに悔しかったっていう気持があって、かなり練習を積んできたっていうのもありますし、前の世界Jr.で敗けたときっていうのは、ちょうどオリンピックがあった年だったんですよ。だから、ポイントを稼ぐ為に、Sr.の選手、だーっと降りてきたんです。それで悔しかった憶出もあって。Sr.で通用してる選手に勝ちたいみたいな。其頃デニス・テン選手なんかももう世界選手権にも出てたんですけれども、其選手にも勝ちたいという気持で世界Jr.に臨んだのは憶えてます。あのときは――なんと言うか――もう枠とかそういうのは全然気にしなかったですね。其前に(Jr.GPS)ファイナルも優勝できてましたし、(Jr.)グランプリも1回も敗けませんでしたし、あのシーズンは1回もJr.で敗けてないので」
すごいな
「但フリーとショートのばらつきはあったんですけれども。元から僕ショート苦手だったので。ショート全然跳べなくてフリーでなんとかっていうかたちのほうが多かったので、其世界Jr.も、ショートで3位だったんですけれども、フリーでアクセル2本決めて1位っていうかたちで。ほんとに自分の得意な、勝ちパターンでいけたなっていうのは憶えてます。だからあの試合は世界Jr.ってあんまり意識してなかったと思うんですよね。それこそオリンピックのショートのときみたいな感覚で、ほんとに、どんなに大きな試合だろうと、これは一つの試合だしこれ迄勝ててるからだいじょうぶっていうような気持で」
自信をもって、練習みっちりして、去年の経験もあるし。じゃあ結果としてすごい良かった
「そうですね。もうなにも思残すことなくJr.を了えられるシーズンになったなぁと思います」
そんときにいっしょに行ってた選手、(村上)佳菜子ちゃんがオランダで生の鰊を食べてお腹壊したって識ってる?
「(苦笑)識らないです」
(2015年5月放送の村上佳菜子篇の一部が映る)日本チームでみんなでがんばろうぜって言ってたんやけど、お腹壊したみたい
「ね〜そういうとこばかですよね〜ほんとに(笑)。同期だから言えますけど。ほんとね、抜けてると言うか。僕ぜっったい試合前にそういうの食べないですもん(笑)」

<CM>

Sr.デビューしたときにいきなり四大陸(選手権)銀メダルやったやん。あのときの心境っていうのはどうやったのかな。Jr.とSr.の違いとかさ
「先ず四大陸行く迄のあいだにかなりSr.ってこんなに大変なんだなっていうのは感じてたんですよ。たぶんひとよりも其期間が短いのかもしれないですけれども、ひとよりもかなり濃密に其時間を過したなぁっていう」
いちばん最初のSr.の試合ってなんやった
「NHK杯です」
おっ
「NHK杯で初めて出場して、で、初めて組みこんだ4回転決めてるんですよ僕。名古屋なんですけれども。それで、まぁ、悪い意味で言えば、調子に乗った」
調子に乗った(笑)
「(笑)調子に乗りました、あんとき。あ4回転跳べんじゃん、て。でも確率ものすごい低いんですよ。今の4回転ループよりも低い状態だったので。ほんとに、1箇月やってて何個跳べるかって。それを、決めちゃったんですよ。そしたらちょっと、練習に対する気持だとかそういうのも、またなんか変ってきちゃって。で次の試合良くなくて。で、あーやっぱりこれがSr.の難しさだみたいなことを感じてまた更に練習してでも跳べなくて、ていうの繰返して、最終的にあの四大陸、て感じでした」
其時はまぁやっぱり嬉しかったの
「四大陸は嬉しかったですね。勿論先刻言ったように4回転跳べたという意味では、NHK杯迄の過信みたいなもの迄はならなかったかもしれないですけれども、やっぱり、今シーズンがんばってきて良かったなと言うか、これで報われたなって。じゃあ来シーズンもっと上行けるな、みたいな」
ほんまにちょっと宛でも成長していくっていう感じで
「はい。(そういう)気持はありました。四大陸が或程度のきっかけですね。自分がもっと上めざさなきゃいけないなと、そういう風に思ったきっかけですね」
全部を考えていちばん印象に残った試合は
「オリンピックかって言われたらそんなことないんですよね〜。今迄の試合のなかでいちばん印象に残ったのって……なんだろうなぁ。……良い意味で考えたら……やっぱり僕が初めて出た全日本ノービスとかですかねぇ」
其頃はまだ――
「こういう感じの!(顔の周りでお河童頭のジェスチュアをして)こういう感じの、頃です」
なんで憶出に残ってるの
「僕、初めて全日本ノービス出て、其時にめちゃくちゃわくわくしてたんですよ。緊張なんかしなかったんですよ。もう、試合が楽しくて楽しくてしかたなくて。其頃の練習量もすごかったので、ミスる――ミスをするという気配すら感じなかったですし。小学校四年生ですよ? 小学校四年生乍らに、ぜったい勝てると思ってたんですよ。で、そのときまだ(採点が)6.0方式なんですけれども、それこそ世界選手権だとかグランプリだとかそういうものを観てて、5点台っていうのは、其(大会に出場する)選手達が出してる得点だったんですよ。但、僕、其試合でプレゼンテーションで5.2が一人だけ出てたんですよ。むちゃくちゃ嬉しかったのは憶えてます」
其処で5点台はすごいでしょう
「はい。吃驚して、これ世界選手権で戦えるとかってちょっと思ってたんですよ其時(笑)。小学生から」
けっこう小学校時代に種々つくってきてんねやね
「つくってますねー僕。だってもう、人生設計がだいたい変ってないですもん、小学校の頃から僕。そのとおり動いてるんですよ。だから、僕、ソルトレイクのオリンピックを観たときに『ぜっったい金メダル獲ってやる』って思ったんですけれども、それが7歳とかなんですね。其時からずっと思ってました。19歳のときのオリンピックで優勝して、で、もう1回オリンピック出てもう1回優勝する、ていうのが、僕の今迄の人生設計で、ぜったいに、次のオリンピック――2回獲って。2回獲ったらそれはもう伝説的になるかな。そんときからずっと思ってましたもん」
やっぱあれやわ、変やわ
「変ですね。もうぜっったい金メダル――獲れるとは思ってなかったんです。獲れるとか獲れないとかじゃなくて『獲ってやる』っていう気持が誰よりもあったと思います」
もう獲っちゃったしね。もう1個
「まだ、まだ。まだあるんで。もう1個」
平昌。やっぱりそれは狙うよねぇ
「狙いますね。狙わないと意味がないですよね。だって今それがスケートやってるいちばんの大きな理由だと思うんで」


(「フィギュアスケーターのオアシス♪KENJIの部屋 羽生結弦編3」に続く)


 平昌五輪了った今読むと、なんかもー、感嘆符!!!しかないじゃござんせんか。

 週べ3.19号の「野村克也の本格野球論 本物の野球はどこへ行った!」で野村が「不思議に思ったのはフィギュアスケート男子だ。女性のように華麗に舞い、踊る。男子競技であるにもかかわらず女性らしい動きやしぐさをもって競うのが、どうにも理解できなかった」と書いてるんですが、じゃあ、男性の役者が女性を演ずる歌舞伎は不思議なんかい。イニングの表裏が固定されてトランジションのない野球の何処がおもしろいのかどうにも理解できない、と言われてすんなり納得するんかい。
 ま、新聞の大見出やTVニュースのハイライトだけで解った気になってる向きは措いといて。
 「プーさんがお金だったら」質問でwebでも話題になった日本記者クラブの羽生の記者会見(ほかの質問も、刈屋富士雄NHK解説委員のものを除き、フィギュアスケート&羽生をずっと観てきたファンにとってはちとずれてたけども)等で羽生の巧みな受応えを聞いたフィギュアスケートファン以外の人々が、「66年振五輪連覇」という記号でなく、ことばで語れるアスリートたる羽生の魅力を感じてくれたのは良かった。
 これからも、羽生の演技とことばを味わいましょう。
| フィギュアスケート | 20:20 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
平尾誠二経歴:3
 現地6日、ALS(筋萎縮性側索硬化症)/MND(運動ニューロン疾患)に関する啓蒙団体J9財団を創設し自らも難病と闘っていた元ラグビー南アフリカ共和国代表SHユースト・ファンデアヴェストハイゼンが死去しました。余命は2年もないと宣告され乍ら、二人のお子さんの為にも7年ちかくも生抜いたユーストの冥福を祈ると共に、輝ける人生に敬意と称讃を贈ります。

  「ミスターラグビー」平尾誠二の死を悼み足跡を辿る記事の第3回。敬称略。


<承前>

 神戸製鋼ラグビー部の誕生は1928年10月。歴史は古いものの、陸上、排球(バレーボール)、野球部とは異なり長年同好会扱で、強豪ではなかった。そこへ1975年、秘書室長の亀高が、厚かった事業部間の壁をとりはらうにはスポーツチームを社員が一体となって応援するのが良いと考え、その対象にラグビー部を択ぶ。
 1976年1月には関西社会人Aリーグに昇格。1978年8月にはオックスフォード大学から、社会人チームとして初の外国人選手となる2選手を受容れた。「即戦力」の学生ラグビー選手も多数入部させた。1983年12月に関西社会人Aリーグ初優勝を遂げる。翌1984年には7戦全勝で連覇、年が明けて全国社会人大会では初の決勝進出(準優勝)。翌季は、関西Aリーグでは2位も、全国大会準決勝で釜石のV8を阻止する(決勝ではトヨタ自動車に敗れ準優勝)。
 そして1986年4月、平尾が入社する。
 「入社の一ヵ月前にイギリスから戻って来て、慌ただしく面接を受けるという滑り込みの入社だった」(『勝者のシステム』)ので会社の業務もよく識らず、主要製品である鉄について学ぶ為に製鉄所の現場で働くことを希望したが、配属先はエンジニアリング事業部、「神戸製鋼が請け負った海外プラントの建設事業を実際に行っているセクションで<中略>そうしたプロジェクトのアドミニストレーション、つまり国内におけるサポート業務/プラント建設の代金の回収とその確認作業、建設事業を行う際にかける保険の手配など、さまざまなサポートを現地とやり取りしながら行う<中略>プラント事業の一般雑務」(同)に就いた。其処で「仕事を通して海外のさまざまな企業とコンタクトすることで、世界を相手にビジネスすることの面白さを知る」(同)。
 入社後直ぐに参加したラグビー部の練習の第一印象は「めりはりの感じられない練習/イギリスのクラブで経験した練習に比べるとずいぶんとのんびりしていて、『社会人の練習というのは、こんなものなんかなあ』」(同)だった。
 神鋼ラグビー部は、同大で自由なラグビーをしてきた萩本、菅野有生央、林等から声が挙り、1984年4月に監督制を廃止(コーチは残す)、主将を中心として選手の自主性を重んずる、日本では珍しい試みに挑んでいた。1986年度は林が新主将に就任した年だ(副将は萩本)。平尾は、「自分たちでやるラグビーにまだ戸惑いをもつ、ほかの選手とのギャップ」(同)を埋める為、林からの期待もあり、「練習については『もっと実戦的なメニューを取り入れるべきだ』ということを主張し、バックスの戦術面では『もっと局面を考えた幅広い闘い方を身につけるべきだ』ということを提案した。<中略>わたしのこうした意見<中略>のなかでも『アマチュア・スポーツであるラグビーは、イギリスのようにクラブ・スポーツの方向を目指すべきだ』という考え方は<中略>チームにすぐに受け入れられ」(同)た。
 再び関西Aリーグで全勝優勝した此シーズン、全国社会人大会準決勝では釜石と9-9で引分け、抽籤で釜石が決勝進出チームとなった。平尾はレギュラーSOとして戦い、アマチュア規定違反騒動にも拘らずチームメイトやファンが温かく迎えてくれたことに、「『あのままラグビーを捨てずに日本へ戻って来て、ホンマによかったなあ』と心から思った」(同)。
 1987年4月にはコーチ制も廃止し、選手によるチーム運営という方向性をより明確にする。平尾はバックスリーダーに任ぜられた。関西Aリーグ2位で全国社会人大会に進む。が、対東芝府中、優勝候補同士の1回戦で5点リードの試合終了直前、「神戸製鋼は、相手陣内深く攻め込み、『これでもう負けはない』と誰もが確信していた。ところが東芝府中は、自陣ゴール前から一瞬のすきを突いてボールを回すと、強引とも思えるカウンター攻撃を仕掛けてきた。そしてバックスとフォワードが一体となり、執念でボールをつなぐと、最後はディフェンスを引きずるようにしてゴールポスト横にトライ」(同)。C成功で15-16の逆転敗けを喫した。
 「神戸製鋼は精神主義重視のラグビーから、一歩も二歩も抜け出そうとしていたのである。ところが実際には、伝統的ラグビーの東芝府中の前に一点差で敗れてしまった/現状のままでは、この一点差は絶対に埋まらないだろう」(同)と敗戦を重くうけとめた平尾は、1988年2月、林の指名を受け、選手ミーティングで翌季の主将に選出された(副将は大八木、藤崎泰士)。

 当時の神鋼は、モールプレイを得意とするFW主体の「大八木と林が“売り”のチーム」(『イメージとマネージ』)。とは言えBKとの連携が悪くスクラムが弱い「非常にバランスの悪いチーム」(『勝者のシステム』)で、しかもプレイスキック(キッカーは平尾と綾城)の精度が低かった。そうしたチームを日本一にするにはどうするか。「スクラムで押し勝ってボールを支配することも、キックで得点を稼ぐこともできないのなら、『走って、パスして、トライを取るしかない』」(同)。
 「フォワードの選手だけで強引な突進をくり返して、せっかくのマイ・ボールがバックスに回らず、たまに回ったとしてもフォワードが苦しまぎれに出したボールのために、バックスがボールを手にしたときにはすでに相手ディフェンスが目前に迫って、有効な攻撃ができない、というのがいつものパターンだった」(同)のを、「もっと早いタイミングで、バックスがほしいと思っているときに出」(同)すようFWに徹底する。また、弱いスクラムを避ける為にノッコンやスローフォワードなどのミスを「犯罪的な行為」(同)と断じて厳しく叱責し、「ボールを持ったらまっすぐに走ることやパスやキャッチングの基本練習」(同)を繰返させた。
 入社3年めの平尾に詰られた先輩選手はおもしろくない。同期や後輩も学生時代に花形選手だった者が多く、平尾主将への不満は高まったが、「『ミスをなくすラグビー』ができなければ、神戸製鋼の体質改善はできない/どうせやるなら、自分で納得できるラグビーをやろう。それで結果が出なかったら、そのときにはキャプテンを降りればいい」(同)と、チームの意識改革を推進めた。
「『自由』であるためには、自分自身に投資すること、つまり厳しい自己節制が求められる。自分をマネジメントしなければならない。『自由』とは、じつは厳しいものなのだ。ところが、たいがいの日本人はそのことをわかっていないから、『自由』を自分の都合のいいように解釈する。つい楽な方向に流れがちになる。そうなってしまえば、それは『自由』ではなく、『堕落』になってしまうのだ。当時の神戸の部員も――先輩方には大変申し訳ないが――そういう傾向があったように私には見えた。それまで、いわば『やらされる練習』があたりまえだったところに、いきなり『自由』を与えられたからだろう」(『理不尽に勝つ』)
 やがて副将の大八木が平尾の方針に理解を示し、「自分たちがボールを保持している限り、何度でも攻撃ができるし、自由な攻撃が選択できる。相手にボールを渡さない限り、相手から攻撃を仕掛けられることもない」(『勝者のシステム』)ラグビーでは「ボールがいちばん大事だ」(同)という平尾の考えが皆に浸透していった。
 また、1987年度に週4回に減らした全体練習を、更に1回2時間・週3回に縮減した。「ダラダラと内容のない練習を続けていると悪いクセがついてしまう。そうなると、せっかくの練習が無駄になるばかりか、かえってチームを弱くする。練習で『いいクセ』をつけるためには、集中して楽しく練習することが必要であり、それには二時間が限度だと考えた/個人の時間を多くつくる/チーム練習で補えない部分は、この個人の時間を使って、それぞれが自分の課題を自主的に練習するという方向に、チームを向けさせたかった/個人の時間<中略>を、社会人として一人の人間として、豊かな生活を送るために活用すべきだ/社会人ラグビーは、ラグビーを仕事としてやっているわけではない。自分の遊びや趣味<中略>だからこそ、『次はどんなプレイに挑戦しようか』と楽しみになるのである」(同)。
 全体練習には、「日本では八七年の第一回ラグビーワールドカップで優勝したニュージーランドの代表チーム、オールブラックスが同じ年の秋に来日したときに、練習の一環として行っていた/当時はまだどこのチームも<中略>遊びでしかやっていなかった」(同。但、平尾は大学時代にジャパンの合同合宿で釜石の選手がタッチフットボールを行うのを見て其重要性を認識しており、少なくとも釜石では正規の練習に採入れられていたと観られる)タッチフットボールをウォーミングアップとして正式に採用した。「タッチフットには、ラグビーに必要な『素早いフォローで、ボールを確実につなぐ』『相手ディフェンスとの間合いをつかむ』『確実にタックルするための距離感をつかむ』などのプレイが集約されてい」(『勝者のシステム』)るからだ。「“プレーが軽くなる(ボール扱いが雑になる)”とか、いろいろ批判もされますけど、ちゃんとやったらこんなにキツい練習もない」(『平尾誠二 リーダーシップの鉄則』)。
 そして、平尾がチームに求めた「練習の三原則」(『勝者のシステム』)は、第一に、「ボールをつないで攻撃を継続させるためには、絶対に必要な」(同)「パスを出したらすぐにフォローに回る」(同)。第二に、倒れこみが「『体を張ったプレイ』として賞讃されるような風潮があった」(同)日本では「相手の継続プレイを妨げるだけでなく、ゲームの進行そのものを寸断してしまうことにもなるから、ラグビーでは絶対になくさなくてはならない行為である」(同)との意識が薄い「ボールの上に横たわる反則行為」(同)を防ぐ為、「倒れないでプレイする」(同)。第三は、プレイが停っている間も「次はどんなプレイをしようかとイマジネーションを膨らませる」(同)よう「プレイが止まっても頭のスイッチは切るな」(同)。此3点を口酸っぱく説いた。
 猶、一旦廃止したコーチ制だったが、「ラグビー部OBの大山文雄<中略>にコーチ就任を要請。試合の時にグラウンドの外から見た印象を話してもらうなど、客観的な視点を提供してもらった」(『平尾誠二 リーダーシップの鉄則』)。
 関西社会人リーグ開幕。神鋼は序盤で格下の近鉄に敗れる(4-9)。「平尾がキャプテンになって、チームは弱くなったんと違うか」(『勝者のシステム』)とチーム内に動揺もみられたが、「今までやってきたことがきちんとできれば『こんなプレイができる』『あんなプレイもできる』という明確なイメージがすでにでき上がっていた」(同)平尾はチーム改革を進めた。
 BKに決定力がないという弱点を補う為、己のポジションをSOからインサイドCTBに変更する。「スタンドオフは、スクラムを組んでボールが密集に入っているときは、必ずスクラムを見てなきゃいけない<中略>が、それを見ていると、相手のラインの揃い具合とか、出足のスピードとか、ウイングの深さとか、そっちのほうが見えなくなる<中略>次の次におこる現象に関しては<中略>インサイドセンターなら、そのあたりの状況を見ていることができます/同志社の三年、四年とインサイドセンターをやってたんです。インサイドセンターがゲームをリードするというのは、たぶん、ぼくが初めてやったですね。インサイドセンターがゲームメイクをするメリットは、スタンドオフよりもバックスに近いポジションにいるから「生きた情報」が来るということです」(『イメージとマネージ』)。
 空いた10番には、元々SHで、SOの経験がなくキックのできないルーキー藪木宏之を抜擢した。司令塔の役割は平尾が務める。「藪木にスタンドオフの経験がないことが魅力だった。経験がないということは、まだどんな型ももっていないということである<中略>『ゲームメークはオレのところでやる。お前はいいパスだけを放ってくれ』と叩き込めば、わたしのイメージするゲームプランも実行できるはずである/スタンドオフが、キックを使った攻撃もタッチに蹴ることもしなければ、チームとしては『フォワードから出たボールは全部攻めます』という話である。ボールをつないで、トライを取りに行くラグビーにこれ以上適したスタンドオフはいないだろう」(『勝者のシステム』)。「藪木に要求したことは、『俺の前にスペースがあったら、ボールをよこせ』『スペースがなかったら、自分で行け』というこの二点なんです<中略>藪木には二者択一まで絞ったわけですね。それによって、逆に、ぼくのほうは五者択一をするようにしたんです」(『イメージとマネージ』)。
 だが、SHのパスとSOのパスは質が異なる。リーグ終盤戦の11月末になって急造SOを起用することにした平尾は、藪木に「コンパクトなモーションを身につけさせるために、上腕部をヒモで体に結びつけて、肘から下の動きだけでボールを放らせ」(『勝者のシステム』)る「ある種スパルタ的な練習」(同)を課した。これには、「スタンドオフ矯正ギプス」(同)を着けた藪木が捕易い処へのパスを迫られた萩本が、以前は苦手だったSOへのパスを改善させるという副次効果もあった。
 藪木のSOデビュー戦となった対トヨタ自動車戦は、藪木は「無難なパスワークで期待に応え」(同)、FWは相手の得意なスクラムで踏張り、43-18と「思わぬ大勝だった」(同)。次のリーグ最終戦(対ワールド)は11-22の黒星も、関西2位で全国社会人大会へ駒を進めた。
 全国大会が始まる12月下旬はちょうど忘年会のシーズンだ。一年で最も酒を飲む機会が多い此時期に、平尾は大八木の提案を受けて大会決勝迄の禁酒を決めた。チームの外では「『とうとう神戸製鋼も禁酒禁煙を打ち出したらしいぞ』というウワサが流れ、それがバラバラになったチームを立て直すための非常手段ではないかと解釈されていた」(『平尾誠二 リーダーシップの鉄則』)。学生でもあるまいにと部員の反撥も強かったが、「万年優勝候補といわれ、優勝の二文字に手が届きそうで届かない。皆で何かしていかなければ、この状況は変わらない<中略>好きな酒を一時期やめる。そうしてまでも勝ちたい。そう思わなかったら勝てないのではないか。そこまでして勝ちたいと思わなければ駄目なのだ、と思ったのだ」(『勝者のシステム』)。しかも、数日のインターバルでタフな試合が続く大会中にアルコールの影響がないことは、フィジカルコンディションの調整に有効だった。
 初戦(対新日本製鐵八幡製鉄所)を苦しみ乍ら17-7で突破し、2回戦の相手は「自慢のフォワードで局地戦を制してボールを支配し、ゴリゴリと力ずくで押しまくりながら相手を完膚なきまでに叩き潰す」(同)優勝候補筆頭の三洋電機だ。平尾は「ここでフォワード主体のチームに勝てなければ、『今まで自分がやってきた新しいラグビーへの取組みがすべて無駄になってしまう』という怖さ」(同)を覚えた。林も「関西リーグでは全然結果が出なかったね/全国大会の三洋電機戦まで、これはというゲームはひとつもできなかった。あの時、すごい危機感があったと思う。みんな、必死になりよったね」(毎日新聞大阪本社運動部『男たちの伝説 神戸製鋼ラグビー部』)、「繋ぐラグビーというのをやろうとして<中略>たんだけどそれが形にならなかったんですよね。ところが此120%(で戦わなければならない)の相手を前にしたときに、もうこれをやりきるしかないっていう処でほんとに一つになったような気がしますね」(Jスポーツ「ありがとうMr.ラグビー 平尾誠二」)と回想する。
 試合開始直後のスクラムで、神鋼は三洋の一気の圧しを堪えきれずにコラプシングを犯す。平尾は「スクラムを組む時間を極力短くして、少しでもフォワードの負担を少なくしようと」(『勝者のシステム』)ダイレクトフッキングを指示した。FWはラックでの球出しもすばやく、しかも球を「出したらすぐにフォローに回る」ことも徹底した為、「三洋電機フォワードはポイントへの集散が常に後手に回り、左右にボールを振られて、いつものゲームの何倍も走り回ることになった」(同)。それ以上に走った神鋼FWだが、「自分たちが攻撃の主導権を握って、常に前へ前へと走っているときには、どんなに走り回っても疲れは感じない」(同)。SOの役割に固定観念のない藪木のプレイも相手の意表を衝き、得点は14-12乍ら神鋼3T(総て平尾が決めた)に対し三洋1T、完勝と言えた。「ボールを継続して、トライを取るラグビー<中略>が初めて実行できた三洋電機戦の勝利は、新しいラグビーに挑んだ選手一人ひとりの勝利だったのである」(同)。
 準決勝の対トヨタ自動車戦は「スクラムを押されながらも、神戸製鋼は確実にボールをコントロールしてゲームを支配」(『平尾誠二 リーダーシップの鉄則』)し、19-12で勝って決勝に駒を進めた。
 決勝のカードは、前年痛恨の初戦敗退に了った対東芝府中戦だ。過去の戦績は神鋼の3戦3敗。FWが強くスクラムも安定した東の強豪と相見える決勝戦、天候は雨と予測された。グラウンドがぬかるむ。スクラムの弱い神鋼には不利だ。BK勝負にもちこむのも難しくなる。
 大一番を翌日に控えた1989年1月7日、天気予報を識ろうと宿舎のTVを点けた平尾が見たのは、昭和天皇崩御のニュースであった。
 雨が降ろうが雪が積ろうが行われるラグビーの試合が、二日後に延期された。平尾は選手達に「試合が延びたということはうちの勝ちや」(『平尾誠二、変幻自在に』)と告げたと云う。8日は果して雨の一日、9日は小雨のぱらつく程度、そして10日、どんよりと曇ってはいたものの雨は落ちていなかった。グラウンドコンディションは8日に較べればかなり良い。
 東芝府中が風上の前半は両軍PGのみで3-9のビハインド。が、PG後、試合再開の度に神鋼の両ロックが猛然と相手FWに襲いかかった。「一発でトライを取れる力はあると思ってた。だから前半リードされても何も気にしてなかった/前半35分すぎから、こっちのFWが押しっ放しで東芝は前に出ていなかった。林さん、大八木さんの激しい当たりで東芝は精神的に腰が引けたんやないかなあ」(『平尾誠二、変幻自在に』で引用された毎日新聞戦評より平尾のコメント)。
 後半は神鋼が風上に立つ。開始早々、敵陣22m手前の右5m上ラックからのパスを受けた藪木が裏へ蹴って自分で追い、東芝府中SH田中宏直が拾損ねた球をゴールライン上で奪ってT、Cも入って同点。東芝府中のリスタートキックを自陣深くから平尾が敵陣深くへ蹴返すと、故障明けの東芝府中FB向井昭吾の対処が遅れ、東芝府中HBが処理したときには大八木が、林が、神鋼FWが突進してきて球を奪った。大八木が右端で22mに迫り林-FL広瀬良治-FL杉本慎治とオフロードして22m内でポイント。萩本がオープンに出し、藪木を経由して中央の平尾の長い飛しパスがライン参加したFB綾城に通った(やや高かったが跳んでキャッチ)ときには、外にWTB菅野が完全に余っている。菅野がポスト裏迄回りこんでダウンボール。勝越(C成功)。
 其後もゲームを支配した神鋼は、更に2Tを加え、23-9で初の全国大会優勝。監督・コーチに三行半を突きつけて迄「自主性のラグビー」(『勝者のシステム』)を志向し乍らどうしても全国制覇に届かず、スターを掻集めても個人技に走るだけだし短い練習時間では勝てないといったマスコミなどの批難の矢面に立ってきた林が、試合後の表彰式で主将平尾の代りに優勝の賞状を受取り号泣する。「わたしとバイス・キャプテンの大八木さんが『もし優勝したら、賞状は昨年まで苦労した林さんに受け取ってもらおう』と、試合前に相談して決めていたことだった」(同)。
 林以外の選手、勿論平尾にも歓天喜地の初優勝だったが、単に全国を制したというだけでなく、当時の日本ラグビーを脱する「新しいラグビー」で日本一になったことが重要だった。 「『スクラムは数あるプレーの中の一つ』と大胆に割り切り、八十分間でトータルすればスクラムをはるかに上回る回数が行われるラインアウト(神戸製鋼はもともとうまいと定評がある)やパス、あるいはラック、モールと呼ばれる密集でボールを奪い合うプレーなどを強化することで、試合におけるスクラムの比重を総体的に減らしてしまった/『ラグビーはボールを人のいないスペースへと運ぶゲーム』という平尾の定義が、『ラグビーはスクラムに始まりスクラムに終わる』という当時のラグビー界の定説よりも勝利に近かったことが証明されたわけだ」(『平尾誠二 リーダーシップの鉄則』)。
 15日、学生日本一の大東文化大学ラグビー部との日本選手権は、平尾が「15日は、もう一つ上のラグビー、格闘技と球技の二面性を持つラグビーの面白さを見せたいと思う。それができるチームやないかな」(『平尾誠二、変幻自在に』で引用された毎日新聞戦評より)と10日の試合後に語ったとおりのゲームになった。前半は18(2T2C2PG)-6(1PG1DG)、後半は28(4T3C2PG)-11(2T1PG)、計46-17と、日本選手権史上最多得点(当時)の快勝。
「タッチライン際にならんだカメラマンたちは、目の前を右に左に走りまくる赤いジャージーについていけず、つぎつぎとゴールラインの背後へと場所を移した。『いつもなら、ノッコンによるスクラムや、タッチキックによるラインアウトのときに撮影場所を移動すればよかったのに……。こんなことは、ワールドカップの試合で経験して以来のことですよ』と、あるカメラマンは興奮した」(『平尾誠二 八年の闘い』)
 大東大は社会人以上とも評される強力FWが自慢のチーム。神鋼はスクラムで圧されたものの、「自軍のゴール前では絶対にスクラムにならないように注意したとか、スクラム以外ではウチのフォワードの動きがよくて、つねに大東大の選手より大勢の選手がボールに集まったとか」(同)、ゲームの内容で圧倒的に優った。大東大が得意としたドリフトディフェンスも「大東大の選手の顔の角度を見ていると、マークする相手しか見ていない。そやから、ボールを横にまわすと、こっちの選手がみんなマークされていてドリフトの網に引っかかるけど、縦に切れこんだら、彼らは一瞬何をやってええのんかわからんようになる。そこを衝けば、ディフェンスラインは敗れると思いました。それで藪木なんかにも、とにかく横に流れんと前へでろと指示し」(同)て粉砕した。
 破られたドリフトディフェンスを大東大が試合中に変えなかったことについては「つまらんかったですわ。何回かぶつかると、もうだれがどこからタックルにくるか、全部わかってしもたですからね。ラグビーというスポーツは、おたがいに何をやるかわからんとこで、狐と狸の化かしあいみたいに手の内を変えるからおもろいんですよ/大学生やからというんやなく、それが日本のラグビーのおもろないところであり、最大の課題やと思います/選手がつぎに何をやるかわからんというようなラグビーが、見ていておもろいし、やってもおもろいんであって、そのとき選手は『つぎのプレイは、これ、やったれ』てな気持ちでラグビーを楽しんでる。そういうラグビーがやれんと、日本のラグビーは向上せんと思いますね」(同)。

 初優勝で神鋼は階梯を一つ昇った。翌1989年度、チームについて平尾が語る。「去年は、僕が言葉でいろいろいったけど、優勝したことで“やはり我々が目指しているのは正しいよ”ということが明確になったし、チームにも浸透した。具体的にいうと、去年まで見られたような怠慢なプレーが非常に少なくなってきましたね。これは、ものすごく単純なことなんですけど、練習中からミスを減らすのが大事なんですよ<中略>一回も落とさないのが当たり前になってくると、今度は逆に落とした時に“ああ、あそこで一回落としたな”とものすごく頭に残る。それは試合中でもそう。みんながそういう意識を持っていれば、そんなに簡単にミスは起きないし、ミスが起きないということはつまり、相手にボールを渡さないということになるんです」(『平尾誠二 リーダーシップの鉄則』)。
 意識改革が進み、FWは自ら単独で夏合宿を行い三洋電機や明大などスクラム強者と練習を積んで弱点を改善した。ブレイクダウンの攻防も強化された。プレイスキッカー不在という弱点も、同大からCTB細川隆弘が入社して解決した。関西社会人Aリーグ初戦の対大阪府警戦は9-6の辛勝も、第2戦で大勝してからは順調に勝星を重ね、最終戦で前年に敗れた(11-22)ワールドに18-10とてこずったものの、7戦全勝で覇権をとりもどす。
 迎えた全国大会、1回戦でライバル三洋電機から開始早々に2Tを奪い19-12で降したあと、関西で苦戦したワールドを34-3、大阪府警を36-6で退けて決勝に進む。「準決勝では体を張ったプレーで“神戸製鋼の天敵”といわれた大阪府警の息の根を、平尾の個人技で止めた。右に左にステップを切りながら相手を七人かわして四〇メートルを走り切った」(同)。
 1990年1月8日、決勝の相手は、同大で平尾の同期だった土田が主将を務める東日本王者のサントリー。FWが強く第3列には脚もあり、BKはWTB大貫慎二・沖土居稔、CTB今駒憲二・吉野俊郎、FB山本俊嗣とキャップ保有者が並ぶ。
 しかし、神鋼FWはスクラムで負けず、ラインアウトを支配し、ラック・モールでも圧倒した。パントの落下地点に到達するのも速かった。土田は「とにかく林さん、大八木さんが元気で、林さんにはキックオフボールをすべて取られてしまった」(『平尾誠二、変幻自在に』で引用された毎日新聞戦評より)と嘆息した。FWは生きた球をBKに出し、BKはミスなく繫ぐ。神鋼に安定したプレイスキックという飛道具を加えた細川も、開始直後のPGに始まって前半だけで3PG。
 前半は、3PGと、5mマイボスクラムから平尾の突進を起点にNo.8武藤規夫がポスト右に決めたT(C成功)で15-3。
 後半に入ると、前半1PGのみに抑えられたサントリーが自慢のBKに展開して攻勢に出る。13分、土田が縦を衝いてFW・BK一体でキープしFBライン参加から今駒がT、Cも決って6点差に縮める。平尾も「苦しかった。下手すれば流れは変わっていたと思う」(『平尾誠二、変幻自在に』で引用された朝日新聞戦評より)と振返った処で、16分、神鋼ゴールライン前のサントリーボールスクラムから、サントリーがサインプレイを失敗した。このほかにも「サントリーはもう一歩のところでノックオン、スローフォワード、あるいは単発の突進で相手に球を奪われる、の繰り返し」(同)。結果、ゲームの流れは変らなかった。
 30分、神鋼にフェイズを重ねられてサントリーがオフサイド、細川がイージーPGを入れる。更に自陣から平尾のステップも挟んで球を継続し、33分、最後は零れ球を平尾-細川、左隅へT(C失敗)。試合終盤には林がブレイクダウンで奪った球を受取った平尾が約五十m独走T(C成功)。ノーサイド直前にサントリーがBKで繫いでT&Cを返したが、已に勝敗は着いていた。
「うまいラグビーにやられました。向こうはFWもバックスも自分たちのボールは確実に生かしてくる。個々にしっかりしたプレーヤーが15人そろっているんですね。個々の体と技術を生かして、つないでくる。うちはまだミスが多い。そこが違いですね」(『平尾誠二、変幻自在に』で引用された毎日新聞戦評より土田のコメント)
「攻めているときのミスが得点の差になったんでしょう」(『平尾誠二、変幻自在に』で引用された朝日新聞戦評より平尾のコメント)
 基本練習を徹底しミス撲滅にとりくんだ神鋼は、28-15で初優勝から連覇を果した。「次の日本選手権はもっともっといいラグビーをやって、みんなをあっと驚かせますわ」(同)。
 日本選手権の相手は早稲田大学。主将の清宮克幸を中心に、1989年春にはニュージーランドからジョン・グレアムとグレアム・ヘンリィを招いて指導を受けるなど伝統に安住しない姿勢を見せ、当時、学生チームでは頭抜けた存在だった。
 そして当時、学生と社会人の浴びる注目は、現在とはまるで異なっていた。
「神戸製鋼はV1の時に<中略>大東文化大学に快勝し、その力を見せつけていたが、ファンの胸には『大東大ではなくて、早明戦のような大舞台を経験しているワセダやメイジが出てきたら神戸製鋼も苦しいのでは……』という期待があった。何しろ、日本のラグビーは、慶応大学からその歴史が始まったことに象徴されるように、長年、学生ラグビーを中心に運営されてきた。だから、十二月の早明戦に日本代表の試合を上回る六万人の観客が押し寄せたり、社会人大会の決勝戦に空席が目立ったりするような逆転現象が起こる(海外のラグビー先進国では、国代表→シニア→学生の順にステイタスが位置づけられている)」(『平尾誠二 リーダーシップの鉄則』。()内注記が必要な状況だった)
 試合前、スタンド下のサブトラックで両チームがウォーミングアップを行う。早大は神鋼の集中力を欠こうと大声を張上げる。さすがに社会人達にも苛立ちが滲んできたが、ウォーミングアップをきりあげると全員で小さな円陣を組む。腕を組合う。輪が縮む。「スクィーズナウ!」と叫んで跳ぶ。‘squeeze’――搾れ、‘now’。「今こそ力を振り絞れ!」(同)。跳ぶ毎に神鋼の集中力が増し、早大の闘志が萎える。「結果論ではなく、この時点で勝負はあった」(同)。
 ファーストプレイで平尾が自陣から走り五十m以上もゲイン、早大の反則を誘ってPGで易々と先制する。其後も神鋼がボールを支配し続け、前半23(2T5PG)-0、後半35(6T4C1PG)-4(1T)、計58-4と圧勝した。
 平尾は「これまでの日本の精神論って、最初から気合いで何でもかんでも解決しようとするところがあったでしょ<中略>九八の相手に、五〇以下の力しか持たないチームがいくら気合いを入れて戦ったって、そんなの勝てるわけがありませんよ<中略>リーダーが、いま五〇しかない力を伸ばすための戦略を具体的に教えて、相手と対等に戦えるまで力が接近して、それでもどうしても埋め切れない最後のわずかの差が出てきた時に、それを埋めるのが気合いなんです。最初に気合いありきではなく、すべての手順を踏んで最後に出てくるのが気合いなんです」(同)と語った。
 「根性」信奉を明解に批判し、一方で「気合」を全否定するのでもない。平尾誠二のキーワードの一つに「自由」が挙げられるが、彼は何よりも既成概念から自由だった。
 過去、同大や神鋼は、メイジの縦やワセダの横のような「型」がない(から勝てない)、と批判された。しかし同大も神鋼も、型に嵌らないから美しく勝て、しかも常に「もっともっといいラグビー」へ成長できる。ワセダに対する完勝で平尾はそれを証明した。

 1978年に社会人チームとして初めて外国人選手を受容れた神鋼は其後も、オックスフォード大学・ケンブリッジ大学の卒業生を中心に、ラグビー強豪国の選手を迎えてきた。1989年には、前年10月に秩父宮競技場で日本代表が12-23で敗れたオックスフォード大のメンバーだったサイモン・ウェンズリィとイアン・ウィリアムズが入社した。
 特にウィリアムズは現役豪州代表選手(17C)であり、当時の日本ラグビー協会の規定(「外国人選手は来日してから一年間は公式戦に出場できない」<同>)によりスタンドでの観戦を余儀なくされたあいだ、チームに有用な助言を種々与えた。RWC1991で優勝したワラビーズが採った、ゲインラインの近くに狭く浅いアタックラインを敷く戦法を勧めたのも其一つである。「フォワードの選手も密集から駆けつけやすいし、ミスが起きても簡単にカバーすることができる。それに、ボールを持った選手が相手に接近しながら早くパスしていけば、防御側の選手はそこで動きを止められるわけだから、その外側に大きなスペースができるでしょ」(同)。1989年度日本選手権で対戦した早大もニュージーランド人コーチから同様の戦法を教えられていたのだが、実践のレベルに差があった。
 ウィリアムズは同じ豪州人のアレックス・エヴァンズ(上記の‘squeeze now’を神鋼に伝えた)コーチなどをチームに紹介する労もとった。そもそも神鋼が招いた強豪国選手は、所謂「ガイジン助っ人」(今では死語<の筈>)というだけではない。ウィリアムズは豪州の弁護士資格をもつし、1980年に入社したオックスフォード大卒のレジ・クラークは『ラグビーマガジン』にエッセイを連載していた。彼等の齎した知的なラグビー談義が、自ら考えて常に向上する神鋼ラグビーを更に磨いた。
 1990年度、漸くウェンズリィ達が公式戦に出場可能になるも、ウィリアムズは前年にワラビーズのテストマッチで負った怪我の恢復が遅れ、完調には遠い。プレイスキッカー細川をFBに起用することで左WTBに回った綾城も慣れないポジションで苦労した。林はイングランドに長期出張していた(其間にオックスフォード大に留学し、ケンブリッジ大との定期戦ヴァーシティマッチに出場して‘blue’の称号を獲得した)。但、林の穴はウェンズリィが充分に埋めた。HOには同大から入社した弘津英司が収まりスクラムが一層安定した。
 11月4日に雨のなか行われた対ワールド戦こそ7-6と薄氷を踏んだものの、1990年も7戦全勝で関西リーグを連覇した。とりわけ、「伝説の早明戦」(終了間際に早大FB今泉清が劇的同点ノーホィッスルT)の12月2日に54-10でトヨタ自動車を降したリーグ最終戦は会心のゲームだった。「立ち上がりに10点取った段階で、今日はいけるんじゃないかと思いました。フォワードがいいリズムでボールをとっていたし、完全に自分たちの流れをつくり出して、その中でトライを重ねてましたからね」(同)と平尾も自賛。「風下の前半には細川にペナルティゴールを狙わせて、来るべき全国社会人大会のシミュレーションまでやってのける余裕ぶりだった」(同)。
 林もチームに戻ってきた全国大会初戦、神鋼はマツダを80-6で蹴散す。約六十m独走Tを含むハットトリックでウィリアムズは全国に名を売った。「これまで大学選手権に比べれば比較的地味な大会だった社会人大会に、毎試合二万人を超える観客が集まるようになった」(同)。
 2回戦の相手は東芝府中。「前半は神戸製鋼のペース。スタンドオフの藪木宏之とインサイド・センターの平尾が相手に近づいて並び、その奥にアウトサイド・センターの藤崎泰士以下のバックスが並ぶ“フレンチ・ライン”(フランス代表がよくやる布陣)からトライを奪ったり、グラウンドの真ん中のスクラムでイアン一人を除いてバックス全員が左側に並び、誰もいない右側に細川を走らせてイアンのトライに結びつけたりと、多彩なプレーを見せて観衆を沸かせた」(同)が、後半、東芝府中が能く守り、PGを着実に決めて追上げてゆく。試合時間残り5分、28-27。が、平尾は、東芝府中がTでなくPGを狙ったことで「また真ん中まで戻れるし、こっちには林さんがいるから、そこでプレッシャーをかけられる」(同)と歓迎した。「僕はねえ、ああいう五分間のつぶし方がうまかったんじゃないかな(笑)。相手よりも一手先を読んでいたんだと思う。たとえば、誰が考えても僕が蹴るだろうという場面で、わざと蹴らずに攻めて時間を使う。そこから連続的に攻めて攻めて、それから蹴る……とかね。そうすると、五分あった残り時間がもう一分ぐらいに減っているから、相手は一発勝負でトライを狙わざるを得ない。でも、そうなると、守るほうは相手の仕掛けが読みやすくなるし、的を絞りやすい」(同)。潰された「五分間」にスコアは動かず、神鋼が1点差で勝利した。
 年が変って1月4日の準決勝はサントリーと当る。FWがボールの支配権を争うフィジカルなゲームで、神鋼は一時0-7とリードを許す。華麗な展開は望めぬと観て平尾はペナルティを得ると細川にPGを狙わせた。後半にTを加えて16-7で辛勝すると、平尾は試合後「相手と根比べみたいなゲームになってしまったけど、でも、これがラグビーなんですよ。負ければ終わりのトーナメントでは本来こういうラグビーになるだろうし、今年一番のいいラグビーができたと思います」(同)と言放った。しかし「学生時代に何度か平尾と対戦した経験を持つ記者たちは<中略>『平尾が強気の言葉を吐く時は、チームにあまり自信を持っていない場合が多いんだ。次の決勝戦は、要注意だな……』」(同)と囁いたと云う。
 もう一方の準決勝では、20-13とリードは神鋼より少ないものの数段上の試合内容でトヨタ自動車に勝った三洋電機が、決勝に進んだ。
 8日、平日の秩父宮ラグビー場には三万人以上がつめかけた。此シーズン、三洋電機には、神鋼初日本一の際に大東大側で戦ったNo.8シナリ・ラトゥ、WTBワテソニ・ナモア、更にはCTBノフォムリ・タウモエフォラウがいて、「社会人最強といわれたフォワードを前面に押し出して、徹底した『キック・アンド・ラッシュ』で相手を密集戦に巻き込み、フォワードの優位さで勝負をつける力強」(『勝者のシステム』)さで打倒神鋼に邁進してきた。
 神鋼は前半開始早々に細川のPGで先制するも、其後は防戦一方。17分、ナモアの突進を契機に神鋼ゴールライン前で三洋電機ボールスクラムとなり、FWのラッシュでTにもちこまれた(C成功)。「この一連のプレイは、事前のシミュレーションで三洋電機が間違いなく仕掛けてくる戦術であることはわかっていたが、実際にフォワードの波状攻撃を受けてみると予想以上に強烈で/イアン・ウィリアムスの俊足を生かして、相手の背後に長いキックを蹴り込むなど、あの手この手の戦術を駆使して、相手に揺さぶりをかけることにした。ところが、ラトゥの加入で機動力のアップした三洋電機はそれにまったく動ぜず、神戸製鋼の仕掛けた攻撃はことごとく封じられる結果となった」(同)。
 細川が同点PGを決めても勝越PGを返され、6-9とリードを許して前半終了。神鋼には殆どT機会がなかった。「FWがスクラムを押し込んで、神鋼の集散を鈍らせ、モールで圧力をかけた。ラックは抑え込み、神鋼の速い球出しを阻止。平尾には2人がかりでタックル。宮本、飯島、ラトウの第3列がバックスとのコンビで神鋼の攻撃を寸断した。ゴール前に攻め込めばスクラム、モールラッシュ」(『平尾誠二、変幻自在に』で引用された毎日新聞戦評より)。
 平尾は「一つ攻め方を間違えたら、大きくいかれるかもしれない」(『勝者のシステム』)と「後半は相手のペースに合わせ、試合時間をどんどんと消化していきながら、最後の一〇分間で勝負をかける作戦に変更した」(同)。
 後半2分に三洋電機にPGで突放されたが、9分に細川がまたもPGを成功させて追縋る。24分、神鋼陣で三洋電機ボールの5mスクラム、サイドアタックをかけたラトゥが意表を衝いてWTB新野拓に渡し、右隅にT。9-16と三洋電機がリードを拡げた。
「打倒・神戸製鋼に照準を合わせて、この大会に臨んでいる三洋電機にしてみれば<中略>リードを何としても守りたいから、試合運びも必然的に慎重にならざるを得ない/相手に挑戦者としての気持ちが薄れ、思い切った攻めがなくなれば、こちらもミスをせずに丁寧にゲームを組み立てていくことで、これ以上点差を開かれる心配はない。トライは奪えなくても、ペナルティを確実に決めて離されずについていけば、最後の一〇分間で勝負をかけるチャンスも訪れるはずだ」(同)。
 リスタートキック、球の争奪戦に神鋼FWが勝つ。神鋼ボールのラインアウトで三洋電機が反則を犯し、27分、細川のPGで12-16と1T差に詰める。
 ゲーム終盤、劣勢だった神鋼が攻勢に出る。が、「最後の一〇分間」の半分が過ぎてもTは成らない。此試合、早めに前へ出て神鋼のTを阻んできた三洋電機のタックルが愈々激しさを増す。だが平尾は「三洋フィフティーンの表情を見ていると、それまでの自信に満ちた表情から、『逆転されるのではないか』という恐怖の表情に変わってきたのがわかった」(同)。
 2回戦でPGを選択した東芝府中に競勝った神鋼は、最終盤、敵陣でペナルティを得ても悉くTをめざした。スコアボードの時計が40分を示す。試合の行方は、真下昇主審がインジュアリータイムをどう計ったかにも懸る(当時、ゲームが切れると停止する時計表示もラストプレイを報せるホーンもなく、主審以外には、何時ノーサイドになるのか笛が吹かれる迄判らなかった)。
 42分、神鋼のキックがタッチを割る。三洋電機側はノーサイドを期待するも、笛はない。43分、神鋼は自陣10m附近でマイボスクラムを得る。真下が腕時計に目を遣る。ラストプレイか。ゲームが停れば試合終了。最後に神鋼がTを決めたとしても、C失敗なら、16-16の同点乍らT数差で三洋電機の初優勝である。
 スクラムから藪木-藤崎-ループした平尾-ライン参加の細川-綾城と左オープンに展開。3人がかりで倒された綾城が巧く球を生かし、No.8大西一平がショートサイドを衝く。数mゲインしてラトゥに止められる。が、ターンオーバーはされず、ラックから萩本が右オープンへ速い球出し。
 大西は、無謀に見えたサイドアタックについて「本能的にラトゥに当たりに行った。“こいつを巻き込んでボールを出せば、もう三洋に最後の防御に戻る奴はいない”」(『平尾誠二 リーダーシップの鉄則』)と瞬時に判断したのだと語った。其時、三洋電機SO大草良広と新野は綾城へのタックルから立上がった処だった。
 パスを受けた藪木が右斜に少し走り、アタックラインの隣に位置する藤崎へ三洋電機FB藤田信之とノフォムリが猛然と突っこんでくるのを見て、三洋電機CTB日向野武久のハードヒットを浴びて倒れつつ、藤崎の次の平尾へ抛る。崩れた体勢からの飛しパスは乱れたが、それで却ってノフォムリは僅かに球を追うスピードを緩めた。平尾は「とにかくボールだけに集中し、ワンバウンドになっても躊躇せず、スピードを落とすことなく、ボールキャッチに走り込ん」(『勝者のシステム』)だ。ルースボールを掬った平尾の右前方には、三洋電機BK最後の一人ナモア。神鋼の展開に振られず能く追いてきた三洋電機主将のFL飯島均のタックルは、平尾が「スピードを落とすことなく」走った分背後からになり、パスを阻むことはできなかった。ナモアが平尾の一つ外の細川をケア。しかし平尾のマウントパスは、大外のウィリアムズが頭上に伸した左手に納まる。
 捕球はハーフゥェイ上。ウィリアムズの前に敵はいない。タッチライン沿いを疾走。ナモアが並走。インターナショナルレベルでも駿足の二人のデッドヒート。会場もTV桟敷も狂乱の渦。22m内に入ると徐々にウィリアムズが前に出る。ゴールラインを越える。ナモアの右手がウィリアムズの背ろ襟に触れる。掴めない。躱されたタックラーがインゴールを転がる。ボールキャリアは走ってきた勢いでつんのめりかけ乍ら中央にダイブ。細川がイージーCを確実に入れて、18-16。
 日本ラグビーの名勝負に数えられる「奇跡」の「逆転劇」(「どの新聞にも、『奇跡』と『逆転劇』の文字が大きく躍り」<『勝者のシステム』>)で、神鋼V3。八幡製鉄、釜石に次いで3チームめの全国社会人大会3連覇だった。
 15日の日本選手権では、前半15(2T2C1PG)-7(1T1PG)、後半23(4T2C1PG)-8(2T)、計38-15で明大を一蹴した。3年連続の日本一だが、達成は容易ではなかった。
 「一年目は無我夢中。二年目は初優勝の勢いで。しかし三年目の今回はむずかしかった」(『平尾誠二、変幻自在に』で引用された毎日新聞戦評より)と試合後に漸く平尾は心情を吐露した。「前の年に自分たちがやっていたラグビーに『否定形』をつけて、新しいものを生み出す/『創造的な破壊』をしなければいけない時期に守りに入ってしま<中略>った/古いやり方を踏襲すること<中略>は<中略>何もしていないことと同じなのだ」(『勝者のシステム』)。神鋼7連覇の間、「『創造的な破壊』が、唯一停滞したのがこの三年目のシーズンだった」(同)。
「一年目は緊張感が強すぎる。二年目にほどよい間合いで選手と向き合える。三年目になるとお互いの緊張感が緩みはじめる。キャプテンは三年続けてやるものではない」(同)

 神鋼は、釜石の3連覇に並ぶという成功に「否定形」をつける。



V4以降はまた次回に。
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平尾誠二経歴:2
 「ミスターラグビー」平尾誠二の死を悼み足跡を辿る記事の第2回。敬称略。


<承前>

 平尾が伏見工高二年生のとき、同志社大学の一年生と練習試合をする機会があった。同大ラグビー部部長だった岡仁詩は、SO平尾の高校生離れしたサイドステップに惹かれた。翌年秋、三年生の平尾に、高校進学の際は本人の意思に任せた父が、同大受験を勧めた。学力も推薦入学に充分で、山口から岡へ、平尾が同大志望である旨の挨拶があった。
 年が明け、同大は全国大学ラグビーフットボール選手権大会で初優勝した(1963年度の第1回日本ラグビーフットボール選手権大会では優勝している)。岡は花園へ赴く。伏見工高が準決勝で黒沢尻工高を降した直後、球技場の通路で平尾と遇う。決勝戦へ向けて、岡が優勝した同大のツキを遣ろうと手を差出すと、平尾は「はい、いただきます」(『平尾誠二、変幻自在に』)と其手を握った。
「『ツキをあげよう』と言えば、普通の高校生なら『ありがとうございます』と返事するはずだ。『いただきます』は何かすごいと思った。『こいつは並じゃないな』」(同)
 1981年、「並じゃない」高校生は同大生となった。
「大学へ入って感じたのは、『選択の余地』がたくさんあるということでしたね。つまり、自由だった/部員は百人ぐらいいるんですけど、練習には六十人ぐらいしか来ない。『なんや、このチーム』というのが第一印象でした。それでも前の年は学生日本一をとってるし、不思議なチームやなと思いました/岡部長の奥さんの名前『クミ』とか、部長の『ヒトシ』というのをサインに使ったというのは、ほんとうですよ(笑)。初めは冗談で言ってたんだけど、『それ、ええやないか』と独特の関西人のノリで決まったところがある」(『イメージとマネージ』)
 日本で指導と言えば型に嵌めることだった。「きまり」を教えて厳しく守らせる。軌道の逸脱は許されない。岡は違った。
「『これをしろ』とはまず言わない。言うときも、物事を言いきらない。『このときはこう行けるでえ』とか『こういう考え方もあるでえ』とか、いろんなやり方を紹介するんですよ。でも結論は出さない。あとはお前ら決めたらええやないか、といなくなっちゃうんです。それでぼくも考え方の幅というか、目の向けどころもいろんな角度でできるようになりました」(同)
 高校生迄の平尾は、初心者の頃からのラグビー研究で培ったゲームの組立に関して、特に評価が高かった。山口が中学生の平尾に一目で惚れこんだ理由も其処にある。だが岡の平尾評は「おもろない」。
「『これはこうするだろうな』と思ったとおりのことをやる。グラウンドのスペースを見て、空いているところに必ずボールを蹴るし、そこを攻めようとしてる<中略>イメージの上をいくものがないから、『そんなん、おもろない』となるわけです」(同)
「非常に決め事の多いラグビーをやっていた。この傾向は、特に高校生の時に強かったですね。あまりそういう考え方に凝り固まると、今度はそこから抜け出せなくなるんですよ。ちょっと自分の読みがズレはじめると、すぐにボールを蹴って手堅くゲームをつくり直したりする。ダイナミックに動きながらゲームをつくり直すことができなくなるんです」(永田洋光『平尾誠二 リーダーシップの鉄則 最強の組織にこの指導力あり!』)
 FL/No.8として活躍した岡は、同大卒業後、後継者として家業の婦人服製造販売業に従事し乍ら同大ラグビー部の指導に当っていたが、請われて同部監督に専念し、やがて同大教授となる。ビジネスとアカデミクス双方の経験があるからか、自由かつ理論派だ。
 理詰は理詰でもデータ重視で型に嵌ったプレイだった平尾が、「人間がやっていると思えば、失敗することも許されるし、もっと可能性のあることを追求することもできる/試合中に何がおきてもおかしくないと思うし、そういう意味ですごく幅を持った考え方」(『イメージとマネージ』)に感銘を受け、「個人の発想が生きるラグビー」(同)に鍛えられた。
「『おもろいから、ラグビーやっとるんやろ?』先生はよくわれわれに言っていた。近年、アスリートがよく『楽しみたい』と口にするようになったが、そのはるか前の話である。当時、スポーツの指導者でそんなことを言っている人はいなかった。ただし、何かを『楽しむ』ためには、ある意味、命を賭けなければならない/命と引き換えてまで、そのことを楽しみたいと思えるかどうか、なのだ/本当に楽しむためには、命がけで取り組む必要があることを、自由とは与えられるものでなく、みずから勝ち取るものであり、そのためには厳しく自分を律しなければならないということをわかっていた。それがチーム・カルチャーとして根づいていた」(平尾誠二『求心力 第三のリーダーシップ』)

 同大ラグビー部には、3年上にのちにオックスフォード大学に留学し‘blue’を獲るLO林敏之、1年上に伏見工高の先輩でもあるLO大八木淳史、同期に東田や高校日本代表で平尾と共に戦ったNo.8土田雅人……と、逸材が多かった。
 前年度優勝の同大は1981年度大学選手権で連覇が期待されたが、準決勝対明治大学戦で「疑惑の笛」(同大ゴールライン目前のラックに跳びこんだ同大WTB大島真也がスタンピングを採られた。大島は「ラックが押されて危ないと思い、無我夢中で突っ込んでいた。そしたら突然、退場です。なにがなんだかわからない。蹴ってなんかいません」<『平尾誠二、変幻自在に』で引用された毎日新聞記事>)で一人少なくなってから崩れ、決勝に進めなかった。
 1982年5月、平尾は初めて日本代表チームに択ばれ、ニュージーランド遠征へ。「リザーブにも入れず、ジャージーにも着替えず、ブレザーを着たままビデオを回すのが役目だった。ところが、ケガ人が続出して、急遽出場する機会にめぐまれた」(平尾誠二『理不尽に勝つ』)対ニュージーランド学生代表戦に於いて、19歳129日の当時日本最年少で初キャップ。「初めてキャップをもらったときは、そりゃうれしかったですよ。ふつうは試合のあとに相手の選手とジャージを交換するんですが、ぼくはそれを断ったんです。それぐらいぼくの中ではすごく重みがあった」(『イメージとマネージ』)。
 其試合で活躍し、9月の三国対抗戦(日本・ニュージーランド学生代表・イングランド学生代表)で来日したイングランド学生代表との試合にも出場する。しかし、直後の対ジャパンB戦で右膝の皿を割り、平尾の'82-'83季は其処で終了した。明大を決勝で倒して(18-6)同大が優勝した冬の大学選手権にも出られなかった。
 1983年秋のウェールズ遠征に向けた日本代表菅平合宿、遠征メンバーに択ばれることを熱望した平尾は、膝の完治を待たずに参加し、練習試合で鼻の骨を折る。「『平尾、おまえ、鼻が折れて曲がってるぞ。そのまま固まるとあとの治療がやっかいだから、今なら間に合うから自分で引っ張って治せ』スクラムハーフの奥脇教さんから恐ろしいことを言われたので、自分で鼻を引っ張って」(『理不尽に勝つ』)出場し続け、翌日の試合も休まなかった。ウェールズには行くことができた。鼻筋は曲ったが。
 1983年度の大学選手権決勝、同大は日本体育大学に31-7で快勝する。「『爆発、燃焼、フル回転』のモットーを持ち、練習では『自覚して、真剣に、徹底して』がスローガン。今季初めて、監督制を廃し、原田ヘッドコーチを中心に7人のコーチ陣が岡部長の指示に従いアドバイス。練習方法も作戦もすべて田井主将を中心の自主性にまかせた。『ワクにはまらず、個を生かし、楽しくゲームする』岡イズムを体現し、しかも一貫したつなぎのラグビー。同大の連覇は技術、戦法とともに、精神主義が大手を振る日本ラグビー界に近代的な一石を投じたといえそうだ」(『平尾誠二、変幻自在に』で引用された毎日新聞記事)。負傷の癒えた平尾は連覇への貢献大だった。
 翌1984年度も同大は大学選手権で決勝(1985年1月6日対慶應義塾大学戦)進出。同大圧倒的有利の下馬評だったが苦戦を強いられた。
 前半5分、展開すると読んだ慶大ディフェンスの裏にスペースを観て平尾が真直ぐ抜ける。タックルを四つ躱して約四十m走り、右隅に先制T。17分にはFWが繋いで最後はSH児玉耕樹が中央に跳びこむ。26分にPGを返されるも、前半を10-3で終えた。
 後半は慶大の「魂のタックル」に同大は防戦一方、15分、平尾のオフサイドでPGを許し1T差に迫られる。20分過には同大陣左隅で慶大がスクラムを圧しに圧す。此処で平尾は「無理をすな、トライされてもいいぞ!」(『平尾誠二、変幻自在に』)と叫んだ。「ゴール前で無理してペナルティーをとられ、万一認定トライでもやられたらたちまち6点をとられて12-10と逆転されてしまう。それなら左スミでスクラムトライされてもゴールはむずかしいから10-10の同点だ。その後センターラインから同志社ボールで攻め込める」(同)。岡は「確かに平尾の言う通りなんです。理屈はそうです。しかしあの場面で、自分がゲームの渦中にいて、そう考え、そう言えるのはすごいと思います」(同)と評した。
 試合最終盤は同大ゴールライン前で慶大の猛攻が続き、到頭、ポスト脇に慶大の劇的同点Tか――スローフォワードの笛。得点が10-6の儘ノーサイドを迎え、同大は大学選手権史上初の3連覇を達成した。

 其頃、日本選手権は、成人の日(当時1月15日)に大学日本一チームと社会人日本一チームが一発勝負で戦う形式だった。1981年、1983年の同大は何れも、1979年から覇権を握り続ける新日本製鐵(現新日鐵住金)釜石製鉄所ラグビー部に敗れている。平尾が初めて出場した1984年の日本選手権でも釜石に10-35と一蹴された。
「釜石ラグビーというのは役割が非常にはっきりしてたんです。その役割をこなすことがチームの勝利に近づく/釜石と対戦して負けたけれども、ぼくらのやっているラグビーのほうがちょっとクリエイティブなものじゃないかという実感はあったんですよ。同志社は釜石とは逆で、ボールを持ったときの個人の発想や判断をゲームに盛りこんでいくというスタイルでした。ただし、リスクが大きいし、個人の発想やレベルが違うから、ムラがあるゲームになるんです/スポーツの社会というか、勝負事の世界は全部そうですけど、勝たないと正論としてとらえられないところがあるでしょう。だから釜石になんとか勝てるレベルまでもっていきたいという思いがありました」(『イメージとマネージ』)
 打倒釜石。同大は、ゴールを学生日本一に置かず、社会人チームを倒せる高いレベルのラグビーをめざした。命懸けで楽しんだ結果、チームは大学選手権を連覇した3年間の内でも最高の力を有するに至った。1984年春、学生チャンピオンが釜石と試合できる岩手県のIBC杯ラグビー招待試合で初めて勝利した。
 但、其試合に、1982年から監督兼選手として釜石を率いるSO松尾雄治はいなかった。
 松尾は、平尾の前の「ミスターラグビー」だ。勿論ジャパンでも中心選手。平尾が目標とする選手の一人であった(「僕はよう盗んだと思うんですよ/人の抜き方、パスの仕方、立ち方、サインの出す組立の仕方」<NHK「新春スペシャル 伝説の名勝負 不屈の闘志激突! '85 新日鉄釜石 vs. 同志社大学」>)。
 1984年秋の対フランスXV戦中に肩鎖関節を脱臼した際には、「『プレーできない』と訴えた私を松尾さんが退場させなかったのも、おそらく松尾さん自身も同じような経験をしてきたからだと思う。『これくらいなら十分できる』と体験的に知っていたから、『大丈夫だ』と判断できたのだと思う/あきらめずにプレーし続けたことは、あとになってみるとすごくよかった。その試合でフランスの『13番』をつけていたのは、つまり私と同じセンターというポジションにいたのは、当時『世界一のセンター』といわれていたフィリップ・セラだった。そのセラと長い時間プレーできたのはすごくよい経験になったし、何より、あの状態でプレーできたことは大きな自信となった。未知の局面を経験したことで、新たな自分に出会えた気がした」(『理不尽に勝つ』)。
 松尾のほうは平尾について、「初めて練習した時に『ものが違う。できが違う』と分かった。野球で言えば、大谷(翔平)君が入ってきたような感じ」(10月21日付ニッカン)と語る。
「平尾くんとの一番の思い出は、引退する前の最後のウェールズ遠征だった。俺が主将で、当時同志社大3年だった9歳年下の平尾くんが新人。ちょうど世代交代の頃だった。キャッチボールしただけで『こいつ、すげぇ。俺の後は彼がジャパンを引っ張るな』って本能で感じたよ。ちょこまか動くしかできない俺より、体が大きくて動きも足も速い。当時は俺がSOだったから、彼はインサイドセンター。試合中はほとんど話さないタイプでね。でも、すごくやりやすかった。こっちが何を考えてるか分かるんだよな。デカい外国人にもひるまず、タックルは『俺に任せろ』ってズバッと前に出る。とにかくすげぇやつだった。ジャパンはウェールズに(24-29で)負けたけど、『赤い恐竜』と恐れられたチームに大健闘した。もちろん彼の存在が大きかった。『飢えた狼は象にもかみつく』ってことで(当時の日比野弘監督が名付けた)『餓狼作戦』ってので戦った。俺は『がろう』って読めなくて、平尾くんに笑われたっけ。名前が『マツオ・ユウジ』に『ヒラオ・セイジ』。似たような名前だから、遠征に行く前に外国人のファンにサインをどう書いたらいいか、ローマ字で一生懸命考えた。で、紙に書く。すると平尾くんが横から顔を突っ込んできて『松尾さん、ダッセェ〜な』と。『素直に漢字で「松尾」でいいじゃないですか』。そう言われて『くっそ〜』って言って認めたもんだ」(10月21日付スポーツ報知電子版)
 但、当時の松尾には幾許かの敵愾心もありや。平尾は冗談めかして言う。「ぼくが十九歳で初キャップをもらったときは、松尾さんに『おまえはヘタくそだ』と言われていましたよ(笑)。よう怒られてましたわ。ぼくはたぶん嫌われてたと思います(笑)<中略>ご本人に聞いたわけではないですが/そのころはまだ若かったから、松尾さんの言うことはすべて正しいという感覚で、言われたことはできるだけやるようにしてました<中略>これはほんとですよ(笑)」(『イメージとマネージ』)
 1984年度の冬に話を戻す。松尾は心身共に限界を感じていた。史上初のV7に挑むラグビー界の大スターの'84-'85季限りでの引退が噂され、日本選手権に関する報道は松尾一色だった。
「松尾さんのためにあるような試合という気もしていた。そういう報道がされていた。それが悔しかった。ともかく、そのためにも勝ちたかった/松尾さんがというわけじゃありません。むしろ周囲のマスコミが騒いだのでしょうが、個人の引退がゲームそのものよりも話題になったのは残念だったといまでも思っています。ぼくはあんなふうにはしたくないし、なりたくない<中略>もし仮に引退するとしても、シーズンが終了したときに自然にそうすればいいので、今日のこの試合で引退なんてマスコミに取り上げられること自体、他の選手に失礼だと思います」(『平尾誠二、変幻自在に』)
「同志社の選手の間には『冗談やない。オレたちはワキ役やないぞ!』という意地とプライドに火がついていた」(ママ。『勝者のシステム』)
 「松尾のいる釜石」に勝つ機会は、もう此処しかない。

 そして、1985年1月15日がやってくる。国立競技場の客席は超満員の六万二千人で立錐の余地もない。
 松尾は1月6日に緊急入院、傷めていた左足首を手術して膿を出し、当日は麻酔を打って病院から競技場に直行した。
 同大は、強風の下、前半は風上から攻める。FWが予想より釜石FWに対抗でき、敵陣での時間が多い。
 4分、釜石のタッチキックがノータッチとなり、同大が球を継続。CTB平尾がタイミングを計って放した飛しパスからFB綾城高志が逆サイドへ斜に走り、内に返す。WTB清水剛志が捕まり乍ら躰を回して左中間にT。WTB赤山泰規はヒットの瞬間にバランスを崩してC失敗も、先制点を挙げる上々のスタート。
 9分、自陣ゴールラインに迫られ、なんとかTは防いだがポスト正面でオフサイド、PGを返される。
 16分、SO松尾勝博がタックルに来た松尾の背中越しに平尾へパス。通ればおもしろかったが、惜しくもノッコン。
 23分、松尾のロングキックをキャッチした平尾が、タッチライン附近のスペースを左右に使ってディフェンスをふりきろうとしたもののタッチラインを踏んでしまう。
 24分、ハーフゥェイと敵陣10mとのあいだのマイボラインアウト、最後尾の土田が捕る。パスと見せてくるりと前を向き、ゴールラインへ十数m迄ブレイク、ノールックで抛ったルースボールをFL浦野健介が拾って外に回す。最後は平尾が僅かにパスを遅らせ一人惹きつけてから大外の赤山に渡し、右5mのやや左にT。今度のCはスロットイン。同志社らしい華麗なT2本で先ずは優勢に試合を進める。
 28分、土田がマイボスクラムの中から手を使って球を出し、再びPGで失点。
 29分、松尾が足首をがちがちにテーピングで固めた左脚でDGを狙うも失敗。
 34分、敵陣のラックで児玉に「耕樹出せ!」と平尾の声がかかる。パスを受けた平尾がドロップキック。「なんでも宜いから点が欲しかった」(「伝説の名勝負」)。平尾のみならず同大としても珍しいDGで、7点リード(当時の1T1C差超)とする。
 が、37分、釜石の猛攻を受け、22m内に入られる。松尾のパスフェイク後の二人飛しパスから釜石BKに巧く繋がれ、最後は平尾のタックル及ばず右中間に決められた。13-12と1点差に肉薄されてハーフタイム。それでも初めて釜石相手に前半終了時点でリードだ。同大は勝利への自信を失わなかった。
 一方、松尾は独りドレッシングルームに退る(当時はハーフタイムが短く通常グラウンドに残る)。チームドクターに足首を診せたがとりたてて治療は受けずグラウンドに戻った。
 後半開始。いきなり釜石FWにスクラムで圧倒される。自陣22m内で激しく攻められた末にオフサイドを犯す。6分、PGで13-15と遂に逆転された。
 11分、釜石CTB小林日出夫がDGを失敗。
 13分、自陣22mと10mのあいだのマイボスクラムを堪え、児玉がダイビングパスアウト。平尾がショートサイドに放すと、BKもFWもなく滑らかに繋いでタッチライン沿いを上がり釜石ゴールラインに達するも、ドロップアウトに。
 19分、松尾がだれもいないディフェンスラインの裏へパント、自ら押えようとしたが、児玉が辛くも捕球しインゴールでダウンボール。ポスト左の釜石ボール5mスクラムから球を貰った松尾が、DGを狙うと思わせてステップでディフェンスラインの裏に出、完全にフリーの外に抛りTを演出する。Cも成功し、13-21と、1T1C差を超えるビハインドになった。
 23分、敵陣左15mの左、5mマイボスクラム。左8-9から児玉がショートサイドを攻めるも倒され、投上げた球を捕った清水がタッチライン際を駆抜けてT――と思いきや、児玉のパスがスローフォワード判定でノートライ。
 25分、平尾の飛しパスから赤山が約三十mゲイン、抛投げたルースボールを平尾が拾って土田に渡す。土田が蹴って、球はデッドボールラインを越えてしまった。
 26分、松尾勝博のパントがフェアキャッチされ、釜石がタッチに出して、ハーフゥェイラインから敵陣へ数m入った地点でマイボラインアウト。大八木が零れた球を拾損ねノッコン。釜石はスクラムから球を継続してロングキック、捕った綾城は蹴らずに持って自陣22mと10mのあいだで捕まりターンオーバー。釜石がまたボールをキープし、集散の良いFWが今で言うオフロードで繋ぐ。松尾勝博のタックルで停めたのも束の間、ルースボールを拾われ、28分、左隅にTを許した。
 リスタート直後、敵陣10mと22mのあいだのラックから9>10>12と渡って、CTB福井俊之が一人躱し二人惹きつけ綾城に投げる。綾城は巧みなステップで釜石ディフェンスをタッチラインに寄せ、空いたスペースへマウントパス。ゴールラインへ数mで赤山が捕り、直ぐFL芝全行へ。しかしT直前に倒されノッコン。
 釜石ボール5mスクラムが回って同大がノッコン、再度釜石ボール5mスクラム、インゴールの松尾がパスを受ける。麻酔のきれてきた松尾が蹴る前に芝が倒してキャリバック。5mスクラムは一旦ラックになるも再び同大ボールで5mスクラム。児玉がタックルを振払ってサイドアタックを試みたが結局は潰され、大きく跳ねた球を追った松尾勝博が狭いインゴールでぎりぎり押え損ねた。またまたマイボ5mスクラム、回されてタッチに出された。
 平尾は此場面を「あれBK欲しかったですよね/サイン出てたんですよ。でも意外に圧せたんでしょうね(笑)、ちょっと慾出たんじゃないですか(笑)」(「伝説の名勝負」)と振返る。
 それでもマイボラインアウトの位置は22m内、キープしてラックを制し、22m上マイボスクラムに。ダイレクトフッキングで8>9>10、松尾勝博が前進し二人にタックルされたが甘く、生きた球を浦野に出す。タックルを受けて大八木へ。松尾がタッチに出そうと腰に縋りつくがタッチラインは踏まず、サイズを利して右腕を伸し、35分、右隅にT。赤山のCは僅かに右に逸れたが、17-25と2T差につめる。
 インジャリータイム3分、大歓声で声が通らず、TV解説の日比野弘はNo.8の「8」と見たが実は「2C(2番<小林>の横にChida)」と松尾が空中に大きく書いたサインプレイで釜石No.8千田美智仁がポスト下にT、Cが決った処でノーサイド。
 17-31。
 同大の4回め(平尾は2回め)の挑戦は実らず、釜石フィフティーンは前人未到の日本選手権7連覇を寿ぎ、引退するリーダーを肩車して讃えた。

 実は平尾は密かに、此試合を最後にラグビーから離れようと考えていた。
「国内でやっている自分たちのラグビーが、思っていたよりも低いレベルで試合をしているわけです。その中で自分がこれからラグビーを続けたとしても何も得るものはないんじゃないかと、そんな感覚になったんです。このまま日本で続ければ“お山の大将”にはなれるかもしれないけど、ぼくが求めていたものは、そういうものじゃなかった」(『イメージとマネージ』)
「大学を卒業してラグビーをするためには、ラグビーチームをもつ企業に就職しなければならない。そのとき、本当に好きなラグビーが仕事と両立するだろうか。企業チームともなれば、会社のために勝つことが大きな目的になるだろう。そうしたなかで、自分は燃えるような思いでラグビーを続けていくことができるだろうか。また、今ある企業チームのなかから、自分のやりたい仕事を見つけられるだろうか/自分の考えているようなラグビーが仕事と両立するはずがない。それなら『社会人になってまでも、ラグビーをするのはよそう』」(『勝者のシステム』)
 とは言え若い平尾には「まだまだ自分はラグビーを高めることができるという確信もあった」(同)為、「悔いの残らないようにラグビーをやって、それから仕事に就こう、そう考えたのである。そのためには、日本にいてはだめだろう。国内にいれば、何をしても『ラグビーの平尾』として目につくだろうし、マスコミにも追いかけられる。思い切って海外に出てみよう」(同)と、「ラグビーの母国イギリスへの留学を決意した」(同)。
 日本でジャパン対アイルランドXV戦に出場したあと1985年6月に英国へ出発、先ずロンドン近郊のブライトンで3箇月の語学集中コースに通う。以前に神戸製鋼所で勤務しラグビー部にも所属していた英国人レジナルド(レジ)・クラーク(現在はラグビー用品メーカーRHINORUGBYのCEO。故奥克彦大使の親友でもあった)に紹介して貰ったロンドンのリッチモンドクラブ(「ロンドンでは二番目に古いクラブチームで、一〇〇年の歴史を超えるイギリスの名門クラブだった。いわゆるオープンクラブで、会費を払えば誰でも入会でき、わたしが所属していた時期には一〇〇名を超えるメンバーがいた」<同>)で発祥の地のラグビーも堪能する。
「スポーツが本当の意味で社会生活のなかに根づいて、人をリフレッシュさせるものになっていることを教えられた。そして、そのなかのメンバーとしてプレイできることが、このうえもない喜びになったのである」(同)
「チーム全員が同じメニューで、しかも毎日休まずに練習することが美徳とされている日本的なやり方に、以前から疑問をもっていたわたしは、『練習は自分のためにする』という考え方に大きな感銘を受けた」(同)
「日本の選手と比較すると、イギリスの選手のほうがトップスピードで走っている距離が長く、その量も圧倒的に多い<中略>ラグビーとはあくまでも走るゲーム。それがラグビーの面白さだということを、イギリスの選手はよくわかっているのである」(同)
「まっすぐ走ることを徹底して教える<中略>一人ひとりの選手がまっすぐに走ることによって有利なスペースが生まれ、より自由な攻撃が可能になる」(同)
「ラグビーでは、ボールを確保しているチームに攻撃のチャンスが生まれるから、ボールの継続が何より重要なのだ。だから、味方に『いつ、ボールを放すか』がゲームを支配する際には、最も重要な要素になる/わたし自身も、ゲームのなかでいつも、『いつ、ボールを放すか』を重要視してきたから、コーチから指摘を受けたことで『ああ、そうなのか』と、改めて自分のラグビーを確認することができた」(同)
「徹底的に『スペースをつくるラグビー』を教わった」(『イメージとマネージ』)
 が、8月。ブライトンのホームステイ先に日本のマスコミから電話が殺到する。
「アマチュア規定違反騒動」が沸騰したのだ。
 山口は人脈が豊富だった。平尾や大八木といった教え子をラグビー界以外の人々に紹介することも多かった。原宿文化を創った一人である実業家の松本瑠樹にひきあわされた平尾は、彼に「すごく刺激を受け」た(同)。大学卒業が近づく頃には、松本の「事業の進め方とか企画の立て方に関心を持ち/企画屋さんというか、プロデューサーみたいな仕事がしたかったんですよ。当時のぼくの中では、ラグビーよりも、だんだんそういう世界のほうがおもしろくなってきていた<中略>ラグビーのビデオを見ているよりも松本さんの話を聞いているほうがおもしろかったしね」(同)。
 文化出版局のモード系ファッション誌の男性版『MR.ハイファッション』が、音楽プロデューサー、ミュージシャン、松本、平尾の対談記事を企画した。松本から参加を打診された平尾は快諾し、渡英前に行われた取材では、用意されていた衣裳に着替えて撮影に応じた。
「ラグビーはアマチュア・スポーツのなかでも、とくに『アマチュア規定』が厳しい<中略>学生だったとはいえ、報酬を受けるような雑誌の取材は受けてはいけないことは、もちろんよく知っていた。このときも、対談に指定されていた場所に行ったら、すでにスタジオがセットされていたことから、『誤解を招かれるような記事は困る』と申し出たところ、担当編集者からは『雑誌の性格上、写真を少し載せなければいけないが、それも大した写真ではない。あくまでも対談が目的の記事ですから』という返事をもらっていた<中略>実際に取材時間の多くが対談に使われたのだが、雑誌ができ上がってみたら対談がほとんど使われず、写真主体のものにされたため、まるでモデルをしたように受け取られてしまったのである」(『勝者のシステム』)
 「一銭の報酬も受け取っているわけではない」(同)のだが、ポーズをとったグラビアに衣裳提供のクレジットが明記されているとあって、国際ラグビー評議会(IRB。現ワールドラグビー)がアマチュア規定を撤廃する(1995年)前、ラグビーワールドカップもない時代、「ラグビー界は、まだ世界的にもアマチュアリズムを守る意識が強く<中略>中でも強硬なアマチュアリズム推進派で、そもそも選手がラグビーと関係のないところでインタビューを受けたり、写真を撮られたりするのを徹底的に嫌っていた」(『リーダーシップの鉄則』)日本ラグビーフットボール協会にとっては大問題だった。平尾は10月のフランス遠征メンバーから外された。
 時差も考えず日本からかかり続ける電話のために平尾はホームステイ先に居難くなり、3箇月の語学研修を2箇月できりあげてロンドンに移る。
 「古い家具や小物などアンティークものに興味をもっていたことから、将来そうした仕事に進むことができればと考えて、インテリア・デザインの勉強もあわせてしたいと思っていた」(『勝者のシステム』)ので、「ロンドンに着いてインテリア学校へ試験を受けにいったんです。そこはインテリア・デザインのカレッジで、語学というより、才能重視型なんで、とりあえずデッサンを描いてこいということになった。いついつまでに三十枚描いてこいというんです。それでデッサンを見せたら『ああ大丈夫だ。筋がええやないか』と評価してもらえ」(『イメージとマネージ』)たものの、「アマチュア問題があって早く日本に帰らないといけない状況になり、結局、デザインの学校へは行けなくなった」(同)。
 「ああこのままラグビーを辞められるなあという気持ちもあ」(同)ったものの、「規定違反と認められれば、たとえ一銭たりとも金銭を受け取らなくても、その選手はもうラグビー界から去らなければならない」(『リーダーシップの鉄則』)ところ、平尾はまだ「疑わしき行為があった」(『勝者のシステム』)という段階だった。日本では松本が、文化出版局に抗議してラグビー協会に説明及謝罪をさせ、金野滋ラグビー協会専務理事の自宅に詫びに赴いた。金野は「平尾君は日本のラグビーにとってどうしても必要なんだ。将来ある人物なんだ/いずれは日本でプレーしてほしいと思っている」(『平尾誠二、変幻自在に』)と語ったと云う。
 そう思っていたのは金野だけではなく、平尾の許には大勢から、此儘ラグビーを止めるなとの声が届いた。「君を目指している若いプレイヤーはたくさんいるのだから、彼らのためにも君は、もう少しラグビーを続ける義務があるはずだ」(『勝者のシステム』)。「いままで自分のことしか考えずに歩んできた自分が、実はそういう見方をもって、自分の選択をしなければいけない立場にいることを、初めて気づかされた/それまでは自分で選択できるなかで『もうラグビーはやめよう』と決めてイギリスに渡って来たはずなのに、今度は自分では選択できない状況下に置かれると『もう一度、ラグビーがしたい』という強い衝動に駆られ」(同。ママ)た。フランス遠征チームを率いていた岡とパリで会い、ラグビーを続けるように説かれもした。
 平尾は日本でラグビーを続けようと決意し、金野に其旨の希望を伝えた。雑誌に写真が掲載された経緯やアマチュア規定違反の認識がなかったことを説明する手紙も送っており、日本の社会人チームに入ってプレイすることで名誉回復を図るのが良いだろうとなった。しかし、已に晩秋に至り就職試験は終了しているし、ラグビー部をもつ企業は騒動の所為で平尾の勧誘には及び腰だ。其処へ、神戸製鋼専務の亀高素吉が欧州出張でロンドンを訪れた。亀高は、秘書室長時代に社員の一体感醸成の為ラグビー部強化にとりくみ、それ以来、有力な学生選手のリクルートに注力してきた。同大からはSH萩本光威、林、大八木などを採っている。
 ほかの企業とは異なり亀高は騒動には動ぜず、平尾の日本でのラグビー継続希望を識るや、「うち、どうや」(『イメージとマネージ』)と誘った。亀高の熱意や誠意、英国で世話になったレジ・クラークが曾て神戸製鋼でプレイしていた縁、同大の先輩の存在。そして「京都生まれのわたしも、神戸の街は本当に大好きな街だった。また、神戸製鋼というチームも、監督制を敷かないなど割に自由な雰囲気があって、クラブチームに近い印象があった」(『勝者のシステム』)ことから、平尾は、騒動前には考えもしなかった重厚長大産業への就職を決める。

 平尾本人や周囲を翻弄した事件は、結果的には平尾を神戸製鋼ラグビー部に誘い、日本ラグビーの発展に寄与することとなった。



 神鋼入社以降は次回。
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平尾誠二経歴:1
 2016年には、北海道日本ハムファイターズが最大11.5ゲーム差を逆転してリーグ優勝/プレイオフを○●○●○/日本選手権を0勝2敗から制し、「超変革」の筈の阪神タイガースはBクラスに転落、武田勝(F)と福原忍(TH)が引退、と、NPBだけでも種々ありました。そして、デイヴィッド・ボウイを初めとして胸を衝く訃報が多かった印象。なかでも驚動甚しかったのは、「ミスターラグビー」平尾誠二死去のニュースでした。
 ということで、恒例の「マイベスツ。」はお休みし、平尾くんについて纏めておきたく存じます。以下敬称略。


 平尾誠二。
 1963年1月21日京都市生れ。家族は両親と2歳違いの兄。
 とても内向的な子供だった。最初に入った幼稚園は「登園拒否」。通園させようとした母を(年少さんの幼稚園児が!)投飛したと云う。「転園」した別の幼稚園を無事卒園して小学生になっても、クラス全員の前で大きな声を出してみなさいと担任教諭に指導されるくらい消極的で、どうしても学校に行けずに欠席することもあった。平日昼に自宅にいると罪悪感や劣等感が湧く。そんなとき、母が昼食の材料を買ってくるようおつかいを頼む。おつかいで「役に立つ」とすこし罪悪感が晴れ、翌日登校しようとの気持が生れた。徐々に欠席がなくなり、友達と遊ぶサッカーや三角ベースではスポーツの天稟が顕れた。
 1975年、京都市立陶化中学校(現凌風中学校)に入学。野球部やサッカー部の練習を覗くと「体育会系」の上下関係が目についた。が、平尾入学の前々年に美術教師の寺本義明により同好会として発足、前年に正式な部活動と認められたラグビー部は違った。平尾の知る少年野球の監督とは異なり、若い寺本は、生徒と対等にラグビーを楽しんでいた。できたてのクラブで三年生はおらず、二年生が十人程、一年生が二十人程。「体育会系」の雰囲気とは無縁だった。
 平尾はラグビー部に入部する。京都教員クラブの一員でもある寺本にラグビーのルールのみならず精神をも学び、平尾は自由で楽しいスポーツに夢中になった。虫明亜呂無『ラグビーへの招待』を始め入手可能なラグビーの専門書(「三、四冊しか出てなかったけど」<平尾誠二・松岡正剛『イメージとマネージ リーダーシップとゲームメイクの戦略的指針』>)を読漁った。父にラグビーシューズを買って貰った際には欣喜。「V7なんて全然。はじめてスパイクをはいたときの感激にくらべたら、屁みたいなもんです」(玉木正之『平尾誠二 八年の闘い 神戸製鋼ラグビー部の奇蹟』)。
 一年生の秋に初の対外試合でFBとして出場した平尾は、開始早々にタックルに行って脳震盪を起したもののフル出場した。試合結果は大敗だったが、ラグビーへの傾倒は深まるばかりだった。他クラブと校庭を共用し時間の限られる部活動に慊らず、自宅近くの公園で毎日キックを練習した。ほかの部員達も加わってきた。
 京都府では体育の日(当時10月10日)に西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場で「京都ラグビー祭」が実施されており、中学校秋季府大会で決勝に進むと、ラグビー祭に、土ではなく緑の芝の西京極で試合ができた。其処を目標に練習に励んだ陶化中ラグビー部は、「二十分ハーフで五、六十点とられて負けちゃうぐらい弱いチーム」(『イメージとマネージ』)だったのが、三年生の平尾が主将を務めた1977年に決勝進出。修学院中学校に10-5で勝って初優勝した。
 其決勝戦を山口良治が観ていた。元日本代表FL、1971年の対イングランドXV戦(3-6の大接戦)でジャパン唯一の得点を挙げた名キッカー、京都市立伏見工業高等学校(現京都工学院高等学校)ラグビー部監督である。
 後年TVドラマ「スクール★ウォーズ」のモデルとなった伏見工高ラグビー部は、1974年に体育教師として赴任し翌年ラグビー部監督に就任した山口の指導で、非行生徒の溜場から強豪へと変ってゆく。1976年には、前年に0-112で敗れた当時のトップチーム花園高等学校に、18-12で勝利。ちょうど平尾も其試合を観戦しており「それまででいちばんのものすごい感動」(山口良治・平尾誠二『気づかせて動かす 熱情と理のマネジメント』)に顫えたものだった。
 山口は教員クラブで寺本のチームメイトだった。試合後、寺本を介して平尾に会うと、CTBで司令塔を担った彼のキックを褒めたあと、要修正点をずけずけ指摘した。二年生のときにはもうステップで相手を抜くことができ「中学生のなかでは、ずば抜けてうまいと思ってい」(同)た平尾は内心むっとしたものの、「みんなほめてくれるばっかりで、こんなことを言ってくれる人はいなかったな」(同)と考え直した。
 山口のほうは、「『ああ、あそこのスペースがあいているな』と思ったら、ポーンとボールを蹴る。『早くまわせ!』と思えば、すぐにパスを放り、ターッとサポートに走る」(同)12番の中学生に惚れこみ、こんな子とラグビーがしたい、此選手に自分のようなラグビー経験をさせてやりたいと熱望していた。公立学校の教師として常ならば有力選手の勧誘などしなかったのに、寺本に紹介して貰い、平尾家に次男を伏見工高に入れてほしいと頼みにいったくらいだ。
 平尾は、籠り勝ちで何事にも自信のなかった頃は平凡な成績だったが、中学三年生時点では学年でも上位につける優等生。両親の頭に工業高校への進学という選択肢はまるでなかった。しかし平尾本人が、伏見工高の試合に感動した記憶や、日本代表の経験談など山口の情熱的な話に、「山口良治にラグビーを教えてもらおう」(同)と志望校を決めた。

 1978年に伏見工高ラグビー部に入部した新入生約三十人のうち半数程度は、京都府中学生選抜チームに択ばれた(主将は平尾が任された)好素材だった。其頃NHK「プロジェクトX」の題材にもなった伏見工高ラグビー部で山口の薫陶を受けたいと願ったのは平尾だけではない。此年には、伏見工高は京都府で三本の指に入る実力を有していた。
 昭和の強豪運動部はほぼ例外なく「体育会系」。情熱家の山口の指導に於いては、教え子への愛情からとは言え、激しい叱責や鉄拳はあたりまえだ。また、部室がタバコの吸殻だらけといった荒れた状況は昔のこと乍ら、「暴走族まがいの奴もいたし、教室でタバコ吸う奴もい」(同)た。自由で楽しい陶化中ラグビー部とは全く異質の環境に、平尾は当初なじめなかった。
「まず練習がつまらなかった。自分の発想を入れられる部分があまりなくて、練習がパターン化されているんです。だから、練習が終わるのが待ち遠しい」(『イメージとマネージ』)
 きつい練習に堪えかねて到頭「休ませてください」(『気づかせて動かす』)と恐る恐る山口に申出た処、怒られるどころか、良くなる迄休むよう労られた。山口は考えなしの体罰コーチではない。平尾の性格や資質を観究めて、彼をどなったり撲ったりすることは殆どなかった。果して平尾は、二、三日でずる休みは逃げだと気づき、ラグビー部に戻ってきた。と、あれだけきつく感じた練習が、辛くない。「ラグビーをすることが『権利』ではなくて『義務』になりかけていた」(同)と悟って「権利としてやるんだと思えるようになった」(同)から。「自分で気づく」ことの重要性が解った此経験は、平尾の大きな財産となった。
 1979年、ジャパンのウェールズ遠征で山口のプレイを観たことのある英国人商社員スティーヴ・ジョンスンが伏見工高ラグビー部のコーチをてつだうことになった。日本の「体育会系」とは哲学からして異なる、英国式の楽しく密度の濃い練習は、選手に好評を得た。厳しい指導で心身が鍛えられた段階の選手達には、きつい練習一本槍よりも効果があった。
 秋、「花園」こと全国高等学校ラグビーフットボール大会の京都府予選決勝戦のカードは、伏見工高対花園高。伏見工高はそれ迄に何度も花園高を破っていたが、花園への切符を懸けた都道府県予選では常に苦杯を嘗めてきた。前年の府予選決勝では、花園高のノッコンに笛が吹かれなかった処から逆転され、6-12で敗け。此年は漸く雪辱を果し、55-0の大差で完勝した。ポスト下への独走Tも決めたSO平尾のキックやパス、ランは勝利に大きく貢献した。
 花園では40-0、42-3と快勝で準々決勝進出も、ディフェンディングチャンピオンの国学院久我山高等学校に4-26で退けられた。チームが強くなりかけた頃に入部した三年生の多くは初出場の花園での八強入に満足を覚えたが、平尾等二年生は悔しさに扼腕した。

 1980年、山口は新チームの主将に平尾を任命した。
 目標に日本一を掲げるレベルに至っても「数人の部員が酒飲んで、信号にぶらさがって交通標識を壊した。それで補導された」(同)者達がいる。はたまた、中学時代からラグビーの実力が認められていた部員には、我儘な気質の者が多かった。目標達成へ各々が自発的に主体的に献身的に努力できるチームをつくるのは困難な状況だった。神経性胃炎を患い迄し乍らも、生涯の親友となったSH高崎利明など仲間の協力も得て、平尾はラグビー部を「日本一になるだけの『格』」(同)を具えた集団に変えてゆく。「説得力をもたせるためには、態度で示すしかない/練習でもゲームでも、ぼくが抜群のパフォーマンスをするしかない」(同)ので、誰よりも練習をした。
 それには二年生のときの経験も影響したかもしれない。伎倆も状況判断も精神面もとびぬけて優れる平尾には山口も一目置いており、それ故か卒業生や上級生も平尾だけは扱かなかった。大雨の試合で、平尾のハイパントを多用した試合運びが奏効して勝った。山口が新聞記者の電話取材に平尾を激賞し、それがおもしろくないほかの部員が彼の陰口を叩くのを聞いてしまった平尾は、酷くショックを受けた。平尾としてはチームの為に力を尽してきたのにチームメイトに妬まれるとは。しかし其処で「あいつらのことを憎らしいと思うんじゃなくて、矢印が自分に向いた/みんなそういうふうに思うのがふつうなんだな、と思った/みんなにとやかく言われないだけのものを<中略>ぼく自身がもたなきゃいけないんだと考えるようになった/矢印が自分に向かなかったら、ぼくの成長や向上はなかった」(同)。
 三月の近畿大会で決勝に進む。大阪府代表の大阪工業大学高等学校(現常翔学園高等学校)と戦い、2T(平尾の「密集を迫力で割って出よった」<早瀬圭一『平尾誠二、変幻自在に』より山口の言>Tを含む。当時1T=4点)を奪い乍ら、1T2PGの大工大高に8-10で敗れた。山口曰く「今思い出してもカッとなるぐらい、たくさんペナルティーをとられました」(同)。
 平尾が京都府選手団の旗手を任ぜられた十月の栃木国民体育大会でも決勝戦で大工大高と当る。前半は0-0。後半、伏見工高が2T1Cで10-0とリードする。ノーサイドが迫るなか大工大高が1Tを返すも残り時間は僅か。が、ラストプレイで平尾の奥へのキックがタッチを割らない。大工大高ボールとなり、伏見工高の反則もあってフェイズを重ねられ、大工大高WTB東田哲也のポスト下TのあとC成功で同点。両校優勝も、伏見工高にとっては敗けたようなものだった。
「もう、悔しくてね。いつもMVPでいなければいけないと思っていたぼくが、最後にミスしたわけだから」(『気づかせて動かす』)
 痛恨は日本一へのモチベーションを愈々高めた。1980年度全国大会、大方の優勝予想は、大工大高か伏見工高のどちらか。平尾は、個々の力では大工大高が上だと分析し、数的優位をつくる戦略を立てた。各員に為すべき戦術を授け、そして、「戦況に応じて責任分担を素早く指示し、『この場はすべてお前に任せる。頼むぞ』と全権を預けるのである。これで奮起しない部員はいない<中略>平尾一人に苦しい思いをさせてはならぬ、そう部員が思ったとき、伏見工は全国制覇への道程をぐっと縮めたのである」(馬場信浩『スクール・ウォーズ 落ちこぼれ軍団の奇跡』)。
 花園の京都府予選、伏見工高は準決勝迄を大差の完封で勝抜き、決勝の対花園高戦も1Tを許したのみの44-4。大阪府の大工大高は、準決勝迄ほぼ百点ゲームで失点0、やや減って53得点だった決勝で1PGを与えただけと完勝で全国大会に進んだ。
 第1シードの大工大高、初戦の2回戦(対佐賀工業高等学校)こそ、気の弛みか宿舎のエレベータで定員超過から宿に迷惑をかけ監督の拳が飛んだ事件があって39-14とややてこずったものの、3回戦以降は熊谷工業高等学校や大分舞鶴高等学校などを相手に毎試合36点以上獲って無失点。
 伏見工高は第2シード、2回戦・3回戦は62-0・51-0と楽勝も、準々決勝の対秋田工業高等学校戦で伝統校のFWに圧されてスクラムTを喫するなど大苦戦。而も平尾が左大腿筋断裂の重傷を負った。3回戦を前に正WTB有沢喜生が右手を切った為に先発していた控WTB栗林彰が平尾のハイパントを好走して押え、辛くも16-10で勝利した。準決勝ではやはり伝統校の黒沢尻工業高等学校と対戦し、今度はこちらのFWがスクラムTを挙げて28-10で降した。
 決勝戦の朝、脚の動かない平尾が宿舎の山口の部屋を訪れる。山口は平尾の脚をマッサージし乍ら昔話をし、「今日の試合はおまえと心中だ。痛いのはわかっている。立つのが精一杯だろう。もう何もせんでいい。グラウンドに立っているだけでいい」(『気づかせて動かす』)と語りかけた。
 痛止めの注射を打ち、試合直前の円陣で「楽しむぞ! 1時間楽しむんだ!」と仲間を励ました平尾は、脚の自由が利かない焦燥を山口のことばを憶出すことで消し、的確な判断と精確なキックで大工大高を翻弄した。だが大工大高には地力があり、伏見工高は平尾以外にも、高崎が胸鎖関節損傷、栗林は脱臼癖のある肩を試合中に二度外し、No.8小嶋信二は強烈なタックルを受けて瞼が腫上がり右眼は殆ど見えない。
 伏見工高が前半5分のCTB細田元一のPGで先制するも、前半を終えて3-0の僅差。それでも平尾は「負けるなんて全然思わなかった<中略>『ようやくここまで来たぞ!』という感じだけ」(同)。ハーフタイムでも山口になにも言わせず、ポジティブな「勝ちモード」(同)を維持した。後半6分、東田のPGで3-3の同点に。大工大高の「勝てる」の思いは過信に類した。細かいミスが其処此処に生ずる。東田は勝越PGを外す。30分ハーフの後半も終りかけ、平尾の脚の麻酔が切れる。再び両校優勝かと思われたとき、マイボスクラムから零れた球を掬ったFL西口聡がスクラムサイドを突破して力強くゲイン、捕まり乍らも高崎へ生きたパス、高崎は平尾を飛しCTB森脇嗣治へ。大工大高ディフェンスが乱れ外にスペース。絶妙なタイミングのパスを受けた栗林が疾走して左隅へ跳びこむ。長く語継がれる劇的な勝越Tが決った。インジャリータイムも緊迫の攻防が続く。そして、平尾がマイボスクラムからのパスを斜に蹴出し、ノーサイド。7-3。
 日本ラグビー史に残る名勝負を制した伏見工高が2回めの花園で日本一を成遂げた。

 平尾は、高校日本一になった試合のあと、「絶対トライ出来ることを信じていた。練習量では勝てなくても、質ではどこのチームにも負けていない」(『平尾誠二、変幻自在に』で引用された毎日新聞記事)と語った。17歳にして已にのちの平尾誠二を彷彿させる。
「わたしは、子供の頃から自分を客観視する習性があった/自分の手や顔という肉体的な部分と、それを意識する視覚、知覚の部分が別々なのだ、という感覚が小さい頃からあったのだろう」(平尾誠二『勝者のシステム 勝ち負けの前に何をなすべきか』)
 客観視は理性の基だ。約三十年も前、伝統の名の下に己の頭で考えることなく「上」に従う旧い日本のスポーツ界、延いては日本社会に異を唱えた知性が、幼い頃から息づいていたと判る。其「理」の平尾が、先ず「情」の山口に多大な影響を受けたことは興味深い。
「わたしは『理』の人間だとよく言われる。たしかに、わたしは理屈でモノを考える。しかし、その原点には、山口先生の優しさや情熱に対する強い共感がある。先生の『情』が、私の『理』を引き出してくれたともいえるのだ」(ママ。『気づかせて動かす』)
 純粋な愛情をかけられると、かけたほうの意図を汲もうと、真剣に考えるようになる。それは、理解した意図を具現する為の行動に繋がる。そもそも情がなければ人は動かないものだ。だからと言って行動迄も情に流されては誤ったほうへ向いかねない。情に発して理で動くのが良かろう。
 更に、己を追いこむぎりぎりの限度を若いうちに把握することは、其後の人生に非常に有用だ。伏見工高で厳しく鍛えられたからのちの平尾がある。「伏見での三年間が、ぼくのキャパシティをすごく広げてくれた」(同)と言う平尾は、3年のあいだでもとりわけキャプテンとしての1年間で成長した。
 たとえば、毎日練習後に部員に話をする際、彼等に気づきを与えられるよう、話し方を探求した。平尾が重視する「『釣り針』のようなもので、相手の心に一度刺さったら、抜けないような」(『勝者のシステム』)ことばはこうして培われた。
 最も大きいのは、「媚びない、キレない、意地を張らない」(『気づかせて動かす』)の徹底を学んだことだ。低きに迎合せず、感情的にならず現実的に考え、意地を張って相手をキレさせない。これは、日本一後の高校日本代表の豪州遠征で主将としてチームを率い成功を収めるなど、ラグビー人生に於いてほぼ常に発揮してきた平尾のリーダーシップの根幹を成す。

 情熱と厳しさで能力を開花させた平尾は、このあと、自由と論理で花弁を拡げてゆく。



 長くなっちゃったので、大学入学以降はまた後日。
| ラグビー | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
Champions are BACK!!!
2季に亙り競技会への出場をお休みしていたアイスダンスのヴァーテュー-モィア組が、「プレ五輪シーズン」の今季、競技に復帰しました。
競技復帰に当り、練習拠点をモントリオールに移し、コーチをマリー=フランス・デュブルイユ&パトリス・ローゾンに変えたのを始め、スタッフも一新したと云う二人は、9月29日の‘ISU CS Autumn Classic International 2016 Montreal’で優勝したあと、グランプリシリーズでもスケートカナダとNHK杯に連勝、満点の30ポイントでグランプリファイナル出場を決めた。表現者のみならず競技者としても伎倆の高さに翳りのないことを証しました。
GPFも纏めて今季前半戦の備忘録をしようと思ってたのに、どーもテレ朝ch.でGPFの放送が(少なくとも年内は)ないみたいで。テレ朝とBS朝日ではそもそもアイスダンス(とペア)は映らないので(儚い望みだが、NHK、放映権を奪回してくれ〜)、慌ててスケートカナダとNHK杯のレビューだけ。

*GPFも結果・得点は記録しておきますので、識りたくない方は記事の最後は見ないで下さいませ。



今季のSDは、曲がプリンスメドレー(‘Kiss’‘Five Women’‘Purple Rain’)。存命中に曲を決めたケースもあると思うが(プリンスは4月に死去)、羽生結弦のSP然り、今季はけっこープリンス使う選手がいるよね。R.I.P.。
衣裳は、女性が、ラヴェンダーブルーのレース地にサファイアブルーのラインストーンを鏤めたノースリーブハイネック(両肩の裏に細いストラップ)のトップ、襟正面にはラインストーンがとりまくブラックストーンを花のようにシンメトリーに並べ、其中央から共布のたっぷりしたレースを垂す。背中は腰迄V字に全開、ラベンダーブルーをすこし覗かせて直ぐに黒のタイツに切替。切替のラインは前身頃の胸下へ続く。タイツの両サイド膝上迄とヒップ上部に、肌色生地をラインストーンで縁取った大柄の蔦模様。トップと同系色のブリリアントなピアス。男性は伸縮素材の黒の上下、前だけ大きく返して煌々しく飾った裏地を見せ、左前身頃に配した六つの飾釦を横に二つ宛チェーンで繫ぐ。

先ずはスケートカナダ、7番滑走で登場(今季はランクに関係なく完全抽籤で滑走順を決定)。
背中合せのポジションでヒップホップパートが始まる。くっと背ろに振る首、ぱっと背ろに蹴上げる靴、総ての動きが曲と同調。Hipな音楽と一体の踊りで一気にリンクを演技に惹きこみ、最初の要素、ノットタッチミッドラインステップ。さすがのユニゾン、レベル3乍らGOEは+3.30(一人だけ+2、あとは+3)。そしてブルースパートへ。プログラムの其処此処に過不足ない頻度で人指指を立てての動作が入り、リズムが変っても統一感が保たれる。ノットタッチミッドラインステップ直前の女性が男性の顔を叩くような振付、また、パターンダンスの前に男性が前髪を掻上げたり、小粋なアクセントが、技術に重きを置くSDなのにショーを観てるかのよう。今季のパターンダンスはミッドナイトブルース。ん〜エッジ深い。女性の仕種や表情のコケティッシュなこと。もう27歳かぁ……。但、第1キーポイントでTimingをとられレベル3、GOEは+1.20。続くパーシャルステップはレベル3でGOE+2.20、細かくステップを踏みホールドチェンジも多いのに、変化がとってもスムーズなので曲に合せてゆったりして見える。レベル4、GOE+1.37のトゥィズルに客席から歓声が挙る。流れるようなトランジションに連続してカーブリフト、レベル4、GOE+1.80(一人だけ+2、あとは+3)。サイドバイサイドの位置から、イーグルの男性が女性の右足を取って右大腿の付根に載せ、女性が瞬時男性の頸許に片手を置いてさっとリフト。女性が左脚で男性の頭を背ろから跨いで男性の両大腿に乗ると、両脚をぴんと伸し、上半身を弓形に反らして両腕を大きく振上げてから、男性が膝が直角になる程に落していた腰を上げつつ女性の躰を一回転させ、いったん肩に載せて下ろす。其儘ぴったり横に並んだ二人が揃って片膝を深く折ってから伸上がり、動きを入れて回転し乍ら、向い合って握り合った拳を衝上げるフィニッシュへ。
演技終了直後に男性が“Wow!”と叫んで二人でlow five。後述のとおり男性は氷に戻るのはスリルだったと語っており、相当に安堵も含まれた“Wow!”なんだろーな。
得点が出る迄に間があったので、男性がカメラに“This must be so big...too big to read”とおどけ、客席から高得点を促す拍手が響いたのちに発表されたスコアは、TES39.57+PCS37.66(SS9.32/TR9.18/PE9.50/CO9.50/IN9.57)=77.23。SD2位のチョック-ベイツ組に1.02差をつけた。
ISUサイトの男性のコメントは、“It was a thrill for us to be back out there on the ice, a great start to our season. We’re really looking down the road to PyeongChang and kind of started our journey again today. We left some points on the table level-wise and that we’ll be looking to improve, but for end of October we’re very pleased”。

NHK杯。6番滑走。
ノットタッチミッドラインステップはスケートカナダより歯切好く、レベル4のGOE+3.14。パターンダンスも三つのキーポイント総てYesでレベル4、GOE+1.37。パーシャルステップはレベル3判定も、GOEはスケートカナダより若干高い+2.36。レベル4のトゥィズルは、スケートカナダでずれた、キャッチフットし乍ら人指指を高く掲げる処はぴったり合ったものの、最後で男性が僅かに安定を欠いた。それでもGOE+1.11。このあとのトランジションで女性のスケートがちょこっとつっかかる。とは言え、絶妙なバランスのカーブリフトはスケートカナダと同じくレベル4、GOE+1.80(一人だけ+2、あとは+3)。フィニッシュのポーズが、拳を握り合うんじゃなく男性が女性の手首を握るかたちになってたのは、変えたのかしら、タイミングが合わなかったのかしら。
パーシャルステップ以外はレベル4で揃え、TES41.58+PCS37.89(SS9.36/TR9.25/PE9.68/CO9.46/IN9.61)=79.47。ソチ五輪でのメリル・デイヴィス-チャーリー・ホワイト組の78.89を上回り、ISU公認大会での最高得点記録を更新した(当然PBである)。
完璧だった訳ではないのに此点数なので、試合を重ねて踊りこんだ「本番」の世界選手権(GPSは「世界一決定戦」なんかじゃないからね!)にはどんな演技が観られるのか楽しみです。
男性曰く“Tessa and I are very pleased with our skate today. It felt pretty similar to what we’ve been done in training at home. We had some work to do to bring our levels up and it was nice to get a couple of level fours and we’ll continue to work technically”(ISUサイトより)。


FDは、曲がCoeur de Pirateの‘Pilgrims on a Long Journey’とSam Smithの‘Latch (Acoustic)’。
衣裳は、女性がアースカラーの膝丈ドレス、身頃はリボンを巻きつけたイメージのデザイン。リボンは最後に右腰から翻る。肌色生地で、両脇腹、胸許、背中を刳って見せる。やや透ける柔らかいアシンメトリーなフレアスカート。左腰前と背ろ中央にウェスト迄のスリット。ドレスと同系色の円いメタル調ピアス。男性はタイトフィットなダークネイヴィ(光の加減でコバルトブルー)の上下、右脇から腋下へ、左脇から肩の背ろへとシースルー地の切替が入る。

スケートカナダ。8番滑走。
スタッカートにきびきびと刻む踊りがクールだったSDとは対照的なプログラム。二人が逆を向いて横に並ぶ。哀感を帯びたピアノが静かに始まる。soundをvisionで表した儚さが、脆く頽れる寸前、流れるようなスケーティングで優雅に奏でられてゆく。何時の間にかステーショナリーリフトに入っている。男性の膝が60°くらいしかなさそうなシットスピン姿勢から些かの淀みもなく、女性のスケーティングレッグが氷を離れ、男性がアップライトになり乍ら女性を横抱きにし肩の位置で1回転後、スターポジションの女性を頸の周りを回して下ろす。ペアスピンに匹敵するような速度で回転しつつ次々にポジションを変える女性を持上げ乍ら立上がる――を、絹の滑らかさで完璧に美しく熟す。レベル4、GOE+1.80(一人だけ+2、あとは+3)。折った両脚を前後に開き腰を落して直ぐ躰を立てキャッチフットで始まるトゥィズルは、残念、女性にスタンブルがありレベル3のGOE+0.51。ホールドチェンジやらトゥィズルやら多彩なステップやら種んなことをしてるのに飽く迄たゆたうようなサーキュラーステップは、レベル3もGOE+2.51。男性のハーフループから入るローテーショナリーリフトはレベル4、GOE+1.63。トラベリングが殆どなくフリーレッグがぴんと伸びたコンビネーションスピンはレベル4、GOE+1.54。スピンのイグジット近くからヴォーカル曲に替る(んだけど実に自然で前の曲の続きかのよう)。長調に変って踊りに力強さが加わってくる。音楽の変化を豊かに表現するダイアゴナルステップはレベル3、GOE+2.36。ミラーが効いたコレオトゥィズルはGOE+1.60。ストレートラインリフトでは、いったん持上げ損ねたものの巧くカバーし(そーゆー振付なのかと思った)、イーグルの男性の右脚の付根に女性が右足で乗ってぐっと男性の右側に上半身を張出し左脚を宙に伸す。重心は男性の躰の外に来る訳で、バランスとり難そうである(イーグルだし)。男性が回転し乍ら下ろし、レベル3、GOE+1.46。GOE+2.00のコレオリフトで回りつつ二人が氷上に跪き、男性の掌に後頭部を預けた女性の顔を男性が覗きこんで終了。
TES55.21+PCS56.62(SS9.39/TR9.29/PE9.46/CO9.50/IN9.54)=111.83。
FDではサーペンタインステップを除く六つの要素でレベル4を獲ったチョック-ベイツ組(112.03)に次いで2位乍ら、総得点は189.06、SDの貯金で優勝。
ISUサイトより男性のコメント。“Tessa and I were pretty excited about this week. This wasn’t the free dance we’ve been doing in practice, but we were excited with having fought through it. It’s a stepping stone for Tessa and I, we’re just starting to build. Getting back on to the ice under this pressure is something we have to learn to do again”。

NHK杯。8番滑走。6分練習でバックスケーティングしてきたシニツィナ-カツァラポフ組とニアミス、女性のスカートを気にしてたけど、なんもなかったようで善哉善哉。女性の腿の高さにブレードが来てたからひやっとしたよ〜。
ディフィカルトポジション、而もポジションチェンジが息を呑む程滑らかなステーショナリーリフトはレベル4、GOE+1.80(全員+3)。トゥィズルも今回は完璧で、レベル4、GOE+1.80(全員+3)。レベル3のサーキュラーステップ(GOE+2.83)、レベル4のローテーショナリーリフト(GOE+1.80。一人だけ+2、あとは+3)の完成度も向上した。コンビネーションスピンはレベル4、GOE+1.54。ダイアゴナルステップもレベル3乍らGOE+2.83。コレオトゥィズルはGOE+1.40。今回はストレートラインリフトに失敗がなく、右臑を持ち、左脚を伸した女性を一回転させて男性の右脚の付根に載せる。ほんとはこんな難しい入りだったのか。リフト後の女性の上半身もスケートカナダより反っていてきれい。レベル4、GOE+1.37。GOE+2.10のコレオリフトの最後、女性が男性の頭を掻抱く振付になりました。個人的にはスケートカナダのフィニッシュのほうが好いかなぁ。しかしそんなんはどーでも宜い。うっとり〜な出来でした。
TES58.77+PCS57.60(SS9.50/TR9.43/PE9.75/CO9.61/IN9.71)=116.37、PB。
総得点は195.84、SDに続きデイヴィス-ホワイト組@ソチ五輪の195.52を抜いて史上最高得点を挙げた。
女性は“It feels great to be back, we’re excited to build on this momentum as we head into Grand Prix Final”、男性は“Tessa and I always have been a team that doesn’t really pay attention to the points. It is kind of great to hear that you got a world record score, but it doesn’t really mean very much. For us, the focus is just on our skating and just being in the mix again”だそうです(何れもISUサイトより)。


エクシビの曲はジャスティン・ビーバーの‘Sorry’。
衣裳は、女性が畝々模様とラメラメフリンジで飾ったダークパープルのミニドレス、両肩紐が頸の背ろで4本に垂れる。男性は、長袖を肘下辺り迄捲った黒いTシャツの胸にマゼンタで番の鳥の刺繍、右袖にも同様の刺繍、黒のジーンズ、ベルトも黒。
アクロバティックなリフトなどはないものの、バックビート気味な処のある曲を巧く表現。楽しい踊りのなかに粋が光るおしゃれなプログラムでした。



少女まんがの深窓の令嬢と不良少年みたいなルックス、齢ににあわぬ高い伎倆と表現力、ヴァーテュー-モィア組がいれば恋愛映画は要らん!と虜になったのはもう随分前のこと。まだ若いのにプロ転向なんて〜と泣いてたので、競技復帰はほんっっっとに嬉しい!
GPFを前にした現地8日付で、ISUサイトに二人のインタが載ってました。
アイスショーに出演したりCBSやTSNで放送に携わったりして競技から離れていた2季のあいだに、CD/OD/FDだった試合形式がSD/FDに変り、若いカップルがどんどん擡頭してアイスダンスというスポーツが新たなレベルに昇ったのを見ていて、些か脅威に感じつつ、同時に“it is a great feeling”だったとか。
ブランクを経ての好成績にデュブルイユ&ローゾンのコーチのお蔭みたいなことも話してた。教えそのもののみならず、パパダキス-シゼロン組やフォルニエ=ボードリ-ソレンセン組といった能力のある若手と切磋琢磨できる環境がすばらしいんだそうです。若いカップルにインスパイアされ、彼等にもヴァーテュー-モィア組の経験(二十年も組んでるものね)が役立てば、と。
NHK杯の優勝インタで女性が、競い合いや目標やがんばることが恋しかったと言ってて、アスリートにとってcompeteが第一なのは勿論だけど、それだけじゃなくて、驚異の若手も何時しか27歳と29歳、競技全体を展望する視点に立つようになったのでしょうか。
史上最高得点については、これ迄も点数については注意を払ってこなかった、多分これからの2週間でうちやぶられる、とのこと。
男性曰く、“We like the challenge, that’s why we came back”。challengeを重ね、数字で計れない高みへ昇る二人を観るのが楽しみです。

ところで、ローゾンの愛称って「パッチ」(Patrice>Patch)なのね……。



駄弁。
今季、ひさっびさに女子をちゃんと観たんですが、アシュリー・ワグナーがすっかりオトナになってて吃驚。それに較べ、へんねケヴィン・レイノルズはすこしも成長なさらないようね。アダム・リッポンは齢相応なので、髪型の所為だろうか。



   *   *   *



以下、GPFの得点とISUサイト(SDFD)より選手のコメント。

SD。2番滑走。
TES42.16+PCS38.34(SS9.50/TR9.39/PE9.71/CO9.54/IN9.79)=80.50で最高得点記録を更新し1位。
女性は“It’s not hard to find the energy when you’re skating to Prince. Right off the bat with that ‘Kiss’ music it’s infectious. We love the movement, we love the feeling of the program, in fact we have to bring the energy down a bit to control our emotions. With the crowd here in France it is amazing and as Scott said we were present in every single step. We really wanted to showcase the improvements we’ve made since NHK (Trophy). Each competition is a stepping stone”と語った。

FD。6番滑走。
TES58.58+PCS58.14(SS9.57/TR9.57/PE9.71/CO9.75/IN9.86)=116.72はPB(パパダキス-シゼロン組の史上最高得点118.17@2016年世界選手権には及ばず)。総得点197.22はこれも最高得点記録を更新し1位。
GPFでは初優勝で、男性は“For us to get this title is really huge. It wasn’t really an objective for this week so it kind of makes it the frosting on the cake. For us, just competing against these young and fantastic athletes again is huge and an honor. We can’t wait to keep growing”と喜んだ。
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